過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いろいろなおくり方がある。これが正しいとかいうことはない。

亡くなったら、お坊さんにお経をよんでもらわなくちゃいけない。戒名を付けてもらわなくちゃいけない。お墓が必要だ。初七日や四十九日の法要が、お盆と彼岸が、回忌法要が必要だ。こうしなくちゃいけない、ああしなくちゃいけない。そういうことがたくさんある。

お金もかなりかかる。平均して200万円くらいは、かかるだろうか。でもそれらは、「こうすべきものだ」「そういうことになっている」と思い込んでいることが多い。主な理由は、「そのようにみんなやってきたから」「世間体があるから」「親類から言われるから」と。

で、そもそも、葬儀にお坊さんは必要だろうか。お経をよむのに、どんな意味があるの。戒名って必要なんだろうか。その本質にさかのぼってみていくことがあっていい。

お坊さんが葬儀で引導を渡す。ほんらいは、まさに死に逝くときにこそ、引導を渡すのが本来の趣旨だろう。お経は、これは死者の供養のためのお経なんてものはひとつもない。生きている人のための教えがお経である。死んでから戒名=仏弟子となったことの証、をつけるのもおかしい。そもそも仏教徒じゃないし。

テーラワーダ仏教(南方仏教)では、お坊さんは臨終に呼ばれて立ち会うという。キリスト教の神父(牧師)も、臨終に立ち会う。死に逝くときに秘蹟をあたえる。葬送のときには、そのひとの一生を集約したことばを述べる。お布施ももらわない。香典ももらわない。

創価学会は、友人葬として、仲間たちがみんなでお経をよみ、南無妙法蓮華経と唱えておくる。戒名などつけない。謝礼はいっさいもらわないと聞く。立正佼成会は、支部の教会に担当の人がいて、亡くなった人がいると、戒名をつけるという。

ぼくが接したインドのヒンドゥー教では、結界の中に剃髪した喪主がはいり、薪で焼かれて灰になるまで故人を見守っていた。結界の外では、遺族が同様にじっと見守っていた。そして、灰になってガンジス川に流される。お墓はつくらない。

こうして、いろいろな宗教の葬送のことを学んだりすると、本質がみえてくるように思う。慣習やしきたり、みんながそうやっているからということもたいせつ。だが、本質をみすえて、もっと簡素に、もっと心のこもった「おくり」ができないだろうか。

いろいろなおくり方がある。「これが正しい」ということはない。さまざまな事例を学んでいくこともたいせつ。そんな趣旨のシンポジウムを今年、主催する。浜松市の文化事業として採択していただいた。その運営の準備に入る。