過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

まさに死にゆくときに、ケアができる仏教があるといい

医者は、「生者」をあつかう。死んでしまったら、もう扱う対象ではなくなる。

お坊さんと葬祭業者は、「死者」をあつかう。亡くなったあとの出番となる。生きているうちに出かけていったら、「縁起でもない」と嫌がられる。

「まさに死にゆくとき」。そこが、とてもたいせつと考える。死にゆく人を見守る家族のケア、死んだ直後の遺族の心のケア、そこをつなぐ役目の人がほしいところ。

ということで、「看とり」と「おくり」をともに行う宗教者はいるのだろうか。そこをいま、調べている。

ひとつは、キリスト教。神父あるいは牧師は、それを行っている。呼ばれれば、臨終にたちあい、秘蹟をおこなう。教会で葬送の主導を行う。

では、仏教者はどうだろうか。───これがほとんどいない。

死んだ後に「引導」を渡すのが、いまの仏教の葬送のあり方だ。引導とは、死霊に対して、迷わずに成仏しなさい、と示すこと。ほとんどの宗派は、そういう立場に立つ。そのために、お経をよみ、戒名をつけるということになる。(ただ浄土真宗は、即得往生であり、弥陀の本願力で、すべて浄土に往生しているとみるので、引導を渡さない。)

ともあれ、仏教が「おくり」専門となっているのは、事実である。そこは、やはりざんねんなことと思う。仏教は、生きる人のための教えであり、そこをまず伝えてもらいたいからだ。

そうして、まさに死にゆくときにこそ、安心を与える仏教であってほしい。それこそ、「引導を渡す」ということ。死にゆく人に安心を与え、遺族に安心を与える。そこに、仏教者のたいせつな役目があるのではなかろうか。