過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

日々、無常。今日、明日がどうなるのかわからない。

それこそ10年ぶりくらいに友人に電話している。特に用事はないんだが。
お互い、いつ死んでしまうのかわからないからね。
また、みんな老境に至って、どんな暮らしぶり、どんな心境かを聞きたいし。

ひさしぶり。どうしてる?
そんなところから、雑談だ。

ほんとは、この10年のうちに、やっておけばよかったんだけどね。田舎暮らし、子育て、デイサービスの立ち上げなど、まったく余裕がなかったのだ。いまだってないけどね。
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もう亡くなった人もいる。連絡が取れない人もいる。
本人は元気だが、息子が自死したとか。
ガンで日々衰えていっているとか。
バリやインドなど海外を旅して遊んでいるとか。

日々、無常。今日、明日がどうなるのかわからない。
マウイ島にいた人は、焼かれずに住んだのだろうか。
こちらも、土石流が襲ってきたらひとたまりもない。
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まさに「三界無安 猶如火宅 衆苦充満 甚可怖畏」(三界は安きことなし火宅の如し 衆苦充満 して はなはだ怖畏すべし:「法華経の譬喩品)
三界というのだから、欲界、色界、無色界。

人間界のみならず、神々の世界、そしてその物質的存在すら離れて意識のみで生きている高級神霊たち、そういう者たちも安泰ではない、ということだ。

「大空の中にいても、大海の中にいても、山の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の恐怖のない場所は無い。」(ダンマパダ128)

「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。」(ダンマパダ170)
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だからといってどうする。
やはり「ダンマパダ」がひとつの支えになる。

142  身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。

145  水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎み深い人々は自己をととのえる。

158  まず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。

159  他人に教えるとおりに、自分でも行なえ――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い。

160  自己こそ自分の主である。他人がどうして(自己の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

239  聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、――鍛冶工が銀の汚れを除くように。

380  実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。故に自分をととのえよ。――商人が良い馬を調教するように。

381  喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。

382  たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。