過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

山伏との対話 暮らしの中の修験道

山伏との対話。

──ひさしぶり。体調悪いって聞いてて。

「そうなんだよ。昨年、不整脈の手術して、それでおとなしくしていたら筋力が衰えて、坐骨神経痛になってね。とほほ」

──それは痛くてかなわんねえ。お勤めもつらくなる。

「とにかく、老いとつきあっていくしかない。それよりも、ちょうど池谷さんの話をしていたところだよ」

──ほぉ。

「うちの信徒さんが来て、小学生の息子さんが学校に行きたがらない。それで、小1から学校に行かなくなった娘のいる友人がいるって話をしていたところだ」

──うちのあかりは、小1の7月から行かなくなった。自分の時間がもったいないって。それで、やめてもいいよと。

でも、家で勉強する習慣はついてきて、「すらら」という対話型のアプリでひとりで勉強してる。もうそういう時代になると思うよ。

なにしろ不登校児は20万人。前年比25%アップ。学校自体が社会の動きに対応できてない。ただ、子どもがずっと家にいられるのも困るんだよねぇ。仕事にならなくなるし。

「そこだねぇ。まだ池谷さんみたいに、家で仕事のできる親だといいんだけど、サラリーマン家庭だとつらい」

──なんとか、子どもの「第三の居場所」づくりが必要だね。

 ▽
「ところで、池谷さんは、Facebookに毎日発信しているけど、金にもならない文章をつくるより、ちゃんと売れる本を作ろうよ」

──そうだね。ちゃんと出版で儲けなくちゃという意識に変わってきたよ。不思議でね。意識が変わると、仕事もやってくる。企画もどんどん浮かぶ。

「それはいいことだ。こんど、『みんながちょっとずつ幸せになる本』ってのを出したいと思っている。池谷さんと作りたいよ」

──ああ、いいね。幸せって「ちょっとずつ」でいいんだよね。そして、どこかに出かけて修行しなくたっていい。暮らしの中で、日常の中で、そのまま修行になる。あるいは、自分の家の近所をあるくだけでも。

「そうそう。仏壇があれば拝む。神社があれば参拝する。ご神木でもいい。特別なことじゃなくていい。ちょっとしたことで、自分の心が清まる。澄んでくる。そうしたら、ちょっとずつ幸せになる。まあ、そのくらいの本だけど」

 ▽
──暮らしの中の修験道だね。暮らしがそのまま心を清める道。山の行もいいけど、里の行だね。

「老いたら老いたままで、病を得たら病のままで、そのままでちょっとずつ幸せになる道」

──その意味では、山伏が奥駈修行で、「懺悔 懺悔 六根清浄 六根清浄」って大声で唱和するよね。あれいいね。そして、功徳というのは、六根清浄の果報ともいえる。だって、自分が見て、触って、聞いて、味わって、心を描いた世界が苦しければ、世界は苦しい。自分自身の心境が澄んでいれば、世界は澄んでいる。

「そうそう」

──そもそも、「さーんげさんげ ろっこんしょうじょう、ろっこんしょうじょうっ」て、響きがいいね。それを腹の底から唱えるだけで、なんというかエネルギーが湧いてくる。よしがんばるぞと勢いも出てくる。

「ぼくも講演会で、ろっこんしょうじょうって、千人くらいの会場でみんなで唱えてもらう。これは、みんな気持ちがいいと言うよ」

──まあ、いわばとってもいい真言マントラ)みたいでもあるし。大自然の中でそれを唱えて歩いたら、これまた醍醐味だね。

「まあ、そんなわけで、池谷さんとおしゃべりを楽しみながら、本を作っていきたいものだ」

──うん。いいね。やりましょう。