過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

村の鍛冶屋  片桐保雄さん(90歳)

「フツーだけどフツーじゃない山里の90代」(すばる舎 刊行予定)。いま執筆中。投稿しながら書き加えていく段階。
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村の鍛冶屋  片桐保雄さん(90歳)
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◉村の鍛冶屋さん
「この手で75年も鉄をぶっ叩いてきたんだ」。
がっちりとしてたくましい指、あちこちに傷跡がある。
むかしは、村には必ず鍛冶屋さんがいた。鋤、鍬、包丁などつくったり修理した。竹細工屋さんもいた。箕やお茶を摘むカゴなど必需品。桶屋さんもいた。大工さんもいた。そういう職人たちが、かならずいた。
片桐さんは、遠州地方でも、おそらく唯一の鍛冶職人だ。
浜松市北部、旧佐久間町の西渡という山あいに暮らす。空と山の境界線がみえる。山上にある作業場から眼下に天竜川が見える。天竜川は北は諏訪湖から南は遠州灘まで流れる。


◉地金づくり地金づくり、研ぎから販売まで、ひとりでこなす。
鍛冶は真っ赤に焼けた鉄を叩いて鍛錬する。
「鋼と地鉄をくっつける作業があってね、これだけはほかの人に負けない自信があるんだ」。
強度を高めるため、鋼と鉄を張り合わせるが「鍛冶屋の腕の見せどころ」だという。
ふいごで風を送り燃え盛るコークス。その中にやっとこ(火造り箸)で鉄の塊を挟んで入れる。鉄の塊は真っ赤になる。それを取り出して、重たいハンマーを振り下ろす。何度も何度も叩く。すると、純度の高い強靭な鉄ができる。そして、冷たい水なかに入れて急激に冷やす。キシューっと大きな音がして蒸気がひろがる。鋼ができるのだ。
近所の小学校に通うの女の子は、その鍛冶を様子をいつもこわごわと見ていた。暗い中で真っ赤に焼けた鉄にハンマーを振り下ろしてる姿しか知らない。片桐さんは、笑った顔などとても愛嬌があるのだが、子どもたちはそれを見たことがなかった。「まるで鬼が仕事をしているようだ」と思ったという。
夏などはすごく暑い。風を通すために店のガラス戸は開け放たれている。しかし男の子などはそういう光景らは興味津々だ。思わず中に入って見ようとする。一歩踏み入った瞬間「危ないから来るな!」と怒鳴られる。
親以外の大人が、ちゃんと叱ってくれる時代だった。特に危ないことに関しては「おめえたち!そんなとこで何やってんだ!!」と叱り飛ばした。そうでないと、子どもは危ない世界を知らずに危険だ。そんな叱り飛ばす声が、なんだかとても温かいともいえる。


◉研ぎから販売まで、ひとりでこなす
つくる製品は鎌から斧、なた、包丁(柳刃、出刃、鯵切り、ハゼキリ、菜切り)、イノシシを仕留めるときに使う槍のようなもの。兼帯という腰に携行する山仕事の必需品で、鉈と鋸のセットなど。
山仕事用の鎌「金原鎌」(きんぱらがま)を作っているのも、片桐さんだけだ。金原鎌は天竜川の治水、治山に尽力した金原明善が指示して作られたのが始まりとされる。刃渡りは約40センチ。それに1メートルほどの柄を付ける。下草刈りにも使えるし、枝打ちにも誓うことができる便利なものだ。
これらの製品は、森林組合や営林署から注文をもらった。また、産業祭や物産展などのさまざまなイベントに出かけては自分で販売した。

 

◉親父に叱られながら、鍛冶を見よう見まねで始めた
片桐鍛冶店を創業したのは、父親だった。片桐さんは、7人きょうだいの長男だった。
「ここで暮らしていくために、おやじの跡を継ごうと決めた。14歳のときだったよ。親父に叱られながら、鍛冶を見よう見まねで始めたんだ。もう80年ちかくになる」。
○年前に妻が亡くなり、ずっとひとり暮らし。食事も自分で作る。
山上にある近所の神社(貴船神社)の氏子総代をしていたが、足腰が弱くなって登れなくなったので、役職は辞退した。
「まだいくらでも仕事はできるぞ。でもなあ、足腰が弱って痛くておもうようにいかん。長時間、同じ姿勢でする作業はきついな。足腰の痛みがなけりゃあ、まだまだがんばれるんだが。
ま、製品は腐るもんじゃないので、在庫は沢山あるんだ。惜しいのは、後継者がいないことだな。今の時代じゃ鍛冶屋は食っていけないかもしれんがなあ。弟子がいれば鍛えてやる。だが、いないもんだで、ぼくの代でおわりだ。
ま、もうすこし現役で頑張る。とにかく鍛冶屋の仕事は楽しいぞ」。

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