過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

天竜川の治水と金原明善

雨ばかりが続く。土砂崩れが心配。きょうも警戒警報が出て、幼稚園と小中学校は休講となった。
豪雨が続くと、川の氾濫も懸念されるところ。
かつての日本は、大きな河川はよく氾濫した。静岡でいえば大井川であり天竜川。天竜川は、「暴れ天竜」と呼ばれ、まさに竜がのたうつように暴れまくり、堤防は決壊して氾濫した。
いまの天竜川には、佐久間ダム、秋葉ダムも船明ダムなどがあり、相当の水を放流している。
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さて、その天竜川の治水に貢献したのは、金原明善(きんぱら・めいぜん)であった。
明治維新の時、都は京都から東京に遷都となる。京都にいた明治天皇は、東京に行幸(東幸)することになる。
ちょうど梅雨の季節であり、 天竜川は氾濫していた。東海道は水浸し。そのような状態で天皇東海道を渡ることは難しい。
そこで明治新政府は、天竜川の堤防復旧工事に着手する。だが、その土木事業を統括するリーダーがいない。そこでそれまで天竜川の治水に努めていた金原明善が、その任にあたる。しかし、相当の費用がかかる。明治政府には資金がない。
明善は、地元の豪農や寺社から当時の金で8万両という寄付を集めた。そして、昼夜兼行で土木工事を行った。
それまで、大きな川には橋はなかった。徳川幕府は、攻められないように、大河を関所代わりにした。明善は、船と舟を繋いでその上に板を乗せて橋とした(船橋)。それで天皇御一行が天竜川を渡ることができた。
明善はその功績が認められ、苗字帯刀を許される名誉を得た。
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やがて明善は、天竜川流域の山間部の植林事業にのりだす。植林することによって、保水させ一気に豪雨が川に流れ込まないようにした。 1885年(明治18年)より植林を始める。
天竜川上流の官有地759haに292万本のスギ、ヒノキの苗木を植える。次いで1200haの植栽を行った。これが、後に天竜杉となり、林業発展のきっかけとなった。山の地主は、たいへんに裕福になった。
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そして現在。いまは山を持っていても、木は売れないので、放置されている。山などあっても、どうしようもないよとよく言われる。スギやヒノキの根っこも浅いので、広葉樹と比べて土を固める力は弱い。豪雨には弱い。
木材が売れないのだから、間伐する費用が出ない、木は密集して細いままだ。鬱蒼として日も当たらず、杉や檜では実もみのらない。
動物たちは棲まない。昆虫もほとんどいない。死んだような森となっている。そして、いくつかのダムができたことで、魚は遡上できずに、ほとんど魚のいない川となっている。
田舎は不便だが、自然が豊かではある。しかし、森は死んだような状態、川には魚がいない(ダムができて魚が遡上できないから)。高齢化によって田んぼは耕作放棄地。太陽光パネルが並ぶ。それが田舎の姿という現実。