過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

諭吉の「ナンコウゴンスケ論」

──「ナンコウゴンスケ論」というのを知っているかい。
木下恒雄さんに聞かれた。よく遊びに行っては、教えをいただいている郷土史家だ。84歳。

──さあ、知りません。ナンコウといえば、楠木正成。それが、ゴンスケみたいなものだという説でしょうか。

──まあ、そんなものだ。福沢諭吉の「学問のすすめ」に書かれていることだ。

──「学問のすすめ」って、当時の大ベストセラー(発行部数あわせて340万部)ですよね。諭吉は知識人のトップクラスのイメージ。その人が、言っているんですか。

──そうだよ。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言へり」という有名な「学問のすすめ」のなかに書かれている。討ち入りで忠臣蔵赤穂義士天皇に忠誠を誓って討ち死にした楠木正成と、権助は同じという説だ。

───へぇ。その権助ってどんな男なんですか。

──権助は、主人の使いで出かけて、1両の金をなくした。申し訳がたたないといって、木にふんどしをかけて首を吊って死んだ。

──その権助楠木正成の死はおなじようなものだということですか。あの明治のときに、そんなことを書いたら、たいへんなことになりますね。

──そうだよ。それで、諭吉は身の危険を感じて、ときに女の着物を着て、隠れるようにしていたというんだ。

──なるほど。とすると、当時の慶応大学は、とんでもない危険思想の学校ということになりますね。

──どうもそうらしい。じつはいま、天竜川の治山治水をした金原明善(きんぱらめいぜん、郷土の偉人)のことを調べている。明善さんの息子が、上京して慶應義塾に入ったんだね。すると、明善さんは、船で出かけていって、「そんな塾に入るな」と連れ戻したというんだ。どうしてかなあと思っていたら、おそらく「ナンコウゴンスケ論」が背景にあったと思うんだ。

そんな話であった。「学問のすすめ」は何十年も前に読んだことで、よく覚えていなかった。「福翁自伝」とともに、読みやすい文体、合理的な精神に感心したものであった。

その部分の要旨はこうだ。「赤穂浪士は、国法を犯した罪人であり、主君のために自分の命を投げ出す忠君義士の死は、主人の使いに出て一両の金を落としてしまい、首をくくった権助の死と同じ。楠正成の死も、世の中にとっては何の益もない、ただ私的満足のための死だ」と。

厳密に言うと、「学問のすすめ」のなかには、楠正成のことは書かれていない。けれども、世に「楠公権助論」として流布したのであった。慶応を出て陸軍士官学校に入った人が、「仕官学校では、福沢諭吉国賊だと教えている。おまえはその福沢の慶応卒か」といじめられたという話もある。