過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

天理教の教会を訪ねてみた

利用者さんの送りの帰りに、ふと思い立って、天理教の教会を訪ねてみた。
4年前に、あかりをともなって訪ねたことがある。
突然の訪問だったが、奥様が出てこられ、「どうぞどうぞ、お上がりくださいと」本堂に通してくださる。
天理教の礼拝の仕方で、柏手を4つ打って、神殿に挨拶。奥様と雑談。
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なんと、ぼくのことをちゃんと覚えてくれていた。「あかりちゃんと言いましたっけ」と、娘の名前も覚えていた。
さらにびっくり。「デイサービスを始められたそうな……」と、噂も聞いておられた。
教会を訪ねたのは、とくに理由はない。そこに教会があったので、突然、思い立った。神殿でいろいろお話をお聞きしたり、よもやま話をしたかっただけである。
ぼくには、こうした直感やひらめきで、お寺や神社、キリスト教会を訪ねることがよくある。
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明治期の第一次新興宗教は、みな好きだ。天理、黒住、金光、大本。そして、御嶽教解脱会など。これらは、みな訪ねたことがある。それぞれの教祖の著したもの、聖典や教典の類も読ませてもらった。教祖の生き方、苦難を乗り越えていく姿、わかりやすい教えに感銘するところが多い。
ふと訪ねたときの対応、その教会長さん、住職や神主とのやりとりで、教えが日々の暮らしにあらわれているのかどうかがよくわかるなあと感じた次第。
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コロナウィルスについても語り合い。天理教の教えの基本は、人は死ぬのではなくて、「生きどおし」ということ。この肉体、このいのちは、神様(宇宙といってもいい。真理といってもいいか)から借りている。
死ぬということは、お借りしたこの肉体を、自分というものをまた神におかえしする。「かしもの、かりもの」という考え方。そして、また新しいいのちとして、「出直す」ということ。そんな話をしたのだった。
たいせつなことは、互いに立てあい助けあい、陽気暮らしということ。
互いに拝み合う姿というのは、かつて天理教の本殿(おぢば)をたずねて、朝のお勤めに参加させてもらったときに、深く感銘したのであった。