過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

天理教の教会を参拝してみた

袋井駅の近くのイタリアン・レストランで食事しようとしたら、まだオープンまで30分あった。さて、どこで時間を潰そうかと思っていると、拍子木の音が聞こえてくる▲あしきをはーらい、たあすけたまえ……と張りのある伸びやかな声。あれは、天理教の人だな。黒い法被を着て歌いながら歩いていた。おおそうだ、この近くに天理教の教会があったな。訪ねてみよう。

そこは山名大教会という。千人くらいは入れそうな大きな本殿がある。場の空気が実にととのっていて清々しい。中ではちょうど、奉仕の若い女性たちが、お手振りの行をつとめていた。あしきをはーらい、たあすけかけこむ いちれつすましてかんろだい(悪しきを祓い 助け駆け込む 一列澄まして甘露台)……▲その歌声と手の動きが、優雅で安らかだ。なんとも心地よくて、その場から動けなくなってしまった。しばし正座しながら、歌声に耳を澄まし、清明な神殿の空気味わっていた。

う〜ん。立派なお寺や神社でも、これほどのすがすがしさ、柔らかさ、透明感は出ないよ。いやあ、たいしたものだ。天理教、なかなかすごい。しかし、どうしてなんだろうな……▲まずなにより、彼女たちの歌声だ。それが場の空気を整えている。権威的で難しい仏教のお経とはちがって、誰でもがわかる子守唄のようなメロディー。神殿はすっきり。掃除も見事に行き届いている▲天理教神道の系譜だから、ごちゃごちゃした像とか飾りとかが、ほとんどない。加持祈祷とかお願いごと札とか、現世利益的なごてごてしいものが、いっさいない。木造でひろーい畳の間だけ、というのがいい。

ぼくは、いろいろな宗教施設に気楽に入ってしまうほうだ。宗教ってのは、難しい理屈や教えや儀式がいろいろとある。でもまあ、教えとか本尊がどうたらは二の次、三の次▲まずはその場の雰囲気だ。主要な祈りの場、行の場というものが、どれだけ整っているのか。波動というのか、雰囲気というのか、発するエネルギーというのか、そのあたりがたいせつと思う。また、これがいいとか悪いというのもなくって、〈それぞれの味わい〉というものをみることにしている。