過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

本質的な生き方に語り合える仲間がいて、それでいて組織的な縛りのない自由な仲間、ネットワーク

この山里の友人に、クリスチャンの家族がいる。きょう訪ねた家は、ハレルヤコーラスを練習しておられた。クリスマスで歌うから、と。またある家族は、作品には必ず聖書の言葉を記している。

ほかにも真如苑創価学会立正佼成会天理教御嶽教、聖成公倫会、さまざまな宗派の方がおられる。家族で信仰したり、ひとりだけであったりもする。

ここでは、教えの内容は論じない。信仰の仲間という軸から見てみたい。

毎週、教会やら座談会あるいは、接心などに通うというのも、いいものだと思う。励まし合い、守り合い、信仰をともにする仲間がいるのは、ひとつの安心と安穏と希望と思う。

山里に暮らす時、その地域にどっぷりつかるとなると、なかなか苦しい。いつまでたっても、新参者、よそ者だし、ずっと転校生みたいなとこるもある。村に伝わる因習的なしきたりなどに疲れることもある。ところが、他に世界があるというのは、ひとつの救いであったりする。

とくに宗教、信仰の世界は、いわば俗の世界を超えたもの。いのちの本質をみつめるもの。生と死を見据えるもの。本質的な生き方の倫理や規範を説くもの。そう思う(まぁ、現世利益と栄誉栄達主義、あるいは政治的な宗教もあるけれども)。

いっぽうで教団や組織に属すると、そこのしがらみ、同調力で疲れることもあるかと思う。本質的な生き方に語りあえる仲間がいて、それでいて組織的な縛りのない自由な仲間、ネットワーク。そういうものがあるといい。

まあ、ぼくは意図はしてないけど、結果としてそういものをつくろうとしているのかもしれない。そんなことを思った。