過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いちばん最初の仏様とは

徒然草」の最後に、兼好が八つになったとき、父に聞いたという話がある。

「仏とは、どんなものなんでしょうか?」
「仏とは、人がなったものだよ」

「では、どのようにして人が仏になったのですか?」
「それは、仏の教えによって、仏になったのだよ」

「じゃあ、その教えた仏には、だれが教えたのですか?」
「それもまた、その先に教えた仏がいたのだよ」

「じゃあ、その先のその先の、教え始めた第一番目の仏は、どんな仏なんですか?」

次々と問いつめられて、父は答えに窮してしまった。

「ううむ……。それは、な。きっと、空から降ってきたか、土から湧いてきたんだろう」

いちばん最初の仏とは、空から降ってきたか土から湧いてきたのか。
─────────────────────────
アーディ・ブッダ Ādi‐buddhaという言葉がある。「本初仏」だ。一番最初に仏になった存在。いちばん最初といったって、この世界は、始まりがいつなのか。無限の過去。あるいは、始まりもなければ終わりもないともいえる。

とにかく、この宇宙が創生されたと時に同時に存在していた仏である。いわば、宇宙と同体といえようか。いわば宇宙を本体とする「宇宙仏」。

経典をよむと、いろいろな仏がいる。お釈迦さまはもちろんのこと、毘盧遮那仏大日如来薬師如来阿弥陀如来など。過去・現在・未来に無限の仏がおわす。

じつに、わかりにくい。いわば、ブッダの毛穴から無限のブッダ現れて、その現れた毛穴から、またブッダが現れて、そして、また延々と現れ続ける。そして、同時に説法をする。そうして、極小のブッダも極大のブッダも同一。こうなると量子力学の最先端の世界に通じるか。
─────────────────────────
仏教学では、様々な仏を区分して価値判断してきた。こっちがすごい、あっちがえらい。。応身如来、報身如来法身如来、化身仏、劣応身、勝応身など、いろんな考え方が生まれる。とくに中国の6世紀の天台智邈が緻密に分析している。

凡夫の心情としては、仏はみんな同じと言ったって、拝するならば、いちばんすごい、いちばんえらい仏様がいいと思うことになる。究極で一番根源的な最も力のある存在に帰依したい、と。

で、最も古い仏は何か。いろいろな経典があるが、「法華経」の如来寿量品で述べられていた仏が、最も古いとも思われる(華厳や密教はしばし置いといて)。「我仏得てよりよりこのかた、無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫」と。ものすごく長遠な時間にわたって無限の過去世に仏であった。このように述べられている。
─────────────────────────
インドで、ゴータマシッダールタとして生まれて、出家して、菩提樹の下で悟りを開いた。それは実は仮の姿である。いわば化身のような存在である。

釈迦仏は過去世においても仏であり、そのまた過去世においても仏であり、無限の過去世において仏であったということになる。

この論理をさらに発展していくと、無量無辺といっても有限の無量無辺である。この宇宙を考えれば、無始無終の仏こそが一番尊い

それはいわば宇宙とともに存在する仏である。

それが、アーディブッダという考え方になるだろうか。こういう論理を発展していくと、まさにもうヒンドゥー教の哲学そのものになってくる。
─────────────────────────
インドの哲学の究極においては、真理はタット(それ、ありがまま、真如)としか言いようがない。名前が名付けられない。それが究極の存在であり、それがあなたである、ということになる。「タット・シヴァ・アシン」(汝がそれである)。

そのタット(真如)から来て、タットに帰る。それが、タターガタ(真如から来て、真如に帰る)で如来と約された。それが仏である。

そして、それこそがあなたの本性である。というところが、日本仏教の本覚思想ということになるか。

人間の本性はアートマンである。このアートマンというものが現れてくる時に宇宙と一体となる。梵我一如となる。これがヒンドゥーの哲学であるが、最初仏の考え方はこのヒンドゥーの哲学と通底する。

※こんなややこしいことを、ワンコの散歩しながら、音声入力しているってのは、ヘンな人と思わけるけれど、山里では出会う人が全くいない。