大乗仏教の基本書「大乗起信論」は、真如(あるがままの真実、究極的な実在)は、この世の現象をつくり出すと説いている。
いわば「般若心経」の「空即是色」に通底する。この場合、「空」と「真如」はおなじ。
「色」とは、現実世界のこと。「色」=現実世界が、「空」である。すなわち、因縁和合して実態がない。無常である、無我である。これは、原始仏教の中核思想である。
しかし、「空即是色」となると、原始仏教は肯定しない。「空」はあくまで「空」である。「空」とは実態がないこと。そこから、現象世界があらわれるという教えは、ブッダにはない。
しかし、大乗仏教は、じつはこちらのほうに力点がある。
大乗仏教は「究極的な実在」=真如、九識、久遠本仏、仏性、如来蔵などを置いて、現実世界を説こうとする。このあたり、ヒンドゥーのヴェーダンタの教えとほぼ同じ。
さて、鈴木大拙は、「真如」をいわば「霊性」と解釈した。
以下、佐々木閑著 鈴木大拙―禅を世界に広めた国際人(昭和史講義:筒井清忠編、ちくま新書)より引用する。
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霊性に関する大拙の言説は、思想というよりむしろ、思想を作成するためのフォーム(書式)と考えた方がよい。大拙の著作に現れる「霊性」という語をすべて一旦空欄にする。「霊性」→「」とするのである。
そしてそこに、読者各人が心の中で感じているなんらかの神秘的実在を代入する。それが一体どういう概念であるかは、感じる人それぞれであるから一本化はできない。つまりそこは変数なのである。その変数に、各人が一番納得する名称をつけて代入する。そうすると各人それぞれにオーダーメイドの思想ができあがる。たとえば、
「霊性」→「真如」(『大乗起信論』)
「霊性」→「仏性、如来蔵」(後期大乗仏教の一系統である如来蔵思想、および密教。それが天台宗を初めとした多くの日本仏教の基本教義ともなっている)
「霊性」→「梵と、その個別顕現としての我」(ヒンドゥー教の梵我一如思想)
「霊性」→「浄土、極楽」(浄土教)
「霊性」→「霊界」(スエーデンボルグ)
「霊性」→「いのち、こころ」(現代の大衆迎合型仏教)
「霊性」→「大和魂」(日本人の特異性を信奉する諸思想)
「霊性」→「言語アーラヤ識」(井筒俊彦)
「浄土」「霊界」などは、大拙自身が代入し、霊性との同意性を主張したものであるが、大拙以降の、たとえば井筒俊彦が言う言語アーラヤ識なども、同じフォームに代入されるべきものである。
こういった様々な変数代入を、大拙の言説はすべて受け入れる。なぜなら霊性そのものの概念規定がなされていないからである。
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(引用終了)