過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いよいよ自分で生きる道を模索しようとしたとき、土俵はどこだろうと悩んだ

幕末の動乱期に活躍した「新選組」は、日本の歴史においても、まれにみる機能集団であった。浪人や百姓上りの寄せ集めにすぎなかった集団が、当時、最強の人間集団へと作りあげられた。

それは副隊長の土方歳三の力によるところが大きいと、司馬遼太郎が書いていた。土方は戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として転戦、五稜郭の戦いでは、軍事治安部門の責任者として戦い、そして死んでいった。

土方の作り上げた組織は、その育ちによるところが大きい。かれはいまの東京の日野市の出身で大きな薬屋だった。実家秘伝の「石田散薬」を行商していた。

多くの人を使い、薬草を採取し、加工して商品にして販売する過程を幼少期から見ていたと思う。そういうところで、人を機能的に使うとことを体験していた。それが新選組に生かされた、という話である。
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自分が育った家がどういう仕事をしていたのか、その人生を大きく左右する。

ぼくなど、父が教員であったので、自ら仕事を作り出し、リスクを背負い、人を動かすという現場を見る機会は、ほとんどなかった。人を使ってうまく機能させるとか、なにか販売して収益を上げるというような発想は浮かばなかった。

なので、仕事というものは、「サラリーマン」以外、考えられなかった。起業して自分で収益を得るなどという考えは、毛頭なかった。寄らば大樹の影がいい。有名で大きな会社、カッコいい会社。そこに入って、ちゃんと仕事して認められて出世する。そうして、安定した人生をおくればいいとい認識であった。

大きな会社に入ればいい。そこがダメなら別の大きな会社に入ればいい。そんな人生を37歳までやっていた。一部上場企業を3つも体験した。組織内で企画立案もしたけれど、リスクは会社が負うわけで、会社のブランドに寄りかかった生き方であった。

それから、零細のプロダクションに移ったりしたが、基本はサラリーマン人生だ。上司の指示を受けて期待に応えて働く、それが仕事という考え方であった。

でもやがて、会社人生は脱輪してしまった。いよいよ自分で生きる道を模索しようとしたとき、はて、自分はなにができるんだろう、どこで勝負ができるんだろう、土俵はどこだろう。そこがわからなかった。

そもそも、自分はなにが好きなのか。それがよくわからなかった。好きなことをして暮らしていけるなど、考えたことはなかったから。好きなことをしたら、生きていけないと思っていた。好きでなければ、仕事は力が出ない。ひろがらないのに……。
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親が商売をしていたら、身近に親の工夫している姿を肌身で感じている。亡くなった友人を見ていてそう思う。

彼は、日本におけるテーラワーダ仏教の基礎を作り上げたと思っているが、いつも発想は実業であった。

どうやって人を動かすか、どうやって収益をあげられるかということが、つねにあった。ぼくは、そういう彼を野心的で仏教には合わないと感じていた。

しかし、いま思うと、じつにかれは正しい。収益がなければ、事業は継続できない。資金的な背景がないと、マンパワーを生かせない。ボランティアで自分だけが必死に動いて、疲れて、あれこれ文句言われておしまい、ということになったらつまらない。

そのあたり、かれはシステム作りをうまくやっていた。多少、ズサンであった。けれども、事業の起ち上げというのは、ラフさがないとすすまない。

その友人は、米問屋の息子であった。遠洋漁業に出る船を相手に米を販売していた。従業員を何人もつかっていた。人の動きを肌で感じてきたのだと思う。

だから、会社を立ち上げ、収益を上げ、形にしていくということを、つねに考えていたのだと思う。

そして、葬儀社への僧侶派遣の仕事もつくりだした。自分は走り回らなくても、収益を上げるシステムを作っていた。
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親の仕事がサラリーマンとか公務員のような安定した暮らしで育った人、親が商売をしていてその動きを肌身で感じている人、これはずいぶんとありようがちがってくるものだ。

真面目に学校に行き、いい成績を修め、いい学校に行き、いい会社に入る。それが安定した人生というような価値観は、これからは大きく崩れていくかもしれない。

いまの日本にあっては、安定性と収入という両面をみると、公務員が最強のようだ。だから、公務員志望の学生が増えている。起業しようという学生は少ない。そこがアメリカなどと大きく違うなあと感じる。