過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

靖国と鎮魂 ②

日中戦争から太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属の数について、日本政府は230万人(1937〜45年)と言っている。特攻隊は4千人だ。

民間人の戦争犠牲者を含めれば、300万人。さらには、アジアの戦死者は1,000万人とも(数は不明なものが多く、正確ではない)。
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戦闘での戦死者は少ない。その6〜7割は、餓死とも言われる。そして伝染病だ。食糧がなくなれば、現地調達しろという戦い方。降伏するな自決しろ。負け戦になれば玉砕と。

輸送船が魚雷で沈められ、爆撃もある、地雷もある。機関銃に打たれ、火炎放射器で焼かれる。アッツ島硫黄島のように自決、そして玉砕。

ビルマから2000メートルの山を超えてインドに攻め入ろうとしたインパール作戦。白骨街道といわれるごとく死屍累々となった。

豪雨と密林の中、食料もない。病気が蔓延する。戦わずして、餓死者・疫病死、濁流にながされた者が続出。ビルマ・インド方面の戦没者約18万5000人のうち、およそ8割の約14万5000人が戦病死者ともいわれる(正確な数は不明)。

戦争というものは、敗残兵の消息など気にとめる余裕などない。遺骨を持ち帰ることなど、不可能だ。板は、海に沈んで藻屑となる。そのまま野ざらし。畑に埋まり、土に還り、洞窟の中でそのまま白骨に。
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戦死者は、白木の箱で帰ってきた。しかし、中に遺骨はあろうはずがない。友人の父親は、南方で戦死した。故国の日本に帰ってきたときには、白木の箱の中は石ころであった。

若くして兵隊にとられ、戦地に赴いた。幼い二人の乳飲み子を残して、さぞやつらかったろう。家族は働き盛りの夫や息子をとられた。そして、生きて帰ってこなかった。

その友人の母親は、結核にかかり、伝染するため幼い我が子を抱くこともできなかった。隔離された別棟で血を吐いて亡くなった。両親を亡くした兄弟は、それぞれ別のところに養子にだされる。
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皇軍の兵士は戦死した時点で、神となり靖国に祀られる(民間人は祀られていない)。

いかに靖国に祀られようが、神と呼ばれようが、それで鎮魂されるのかどうか。そうして、およそ半分の113万人の遺骨がいまだに日本に戻ってきていない。そのまま放置されている。

鎮魂ということでいうと、兵士だけではない。おびただしい民間人の犠牲者はどうなのか。空襲で亡くなった人たち、原爆でなくなった人たち、沖縄の人たち。そうして、アジア全域では1,000万人もの犠牲者たちがいる。

戦後70年。平成の世も移る。過去のことや他人の心配をするよりも、自分の暮らしの心配をしたほうがいいのだが。ま、時間をみて、このあたり、整理してみたい。(続く)