過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いまの心のまま死んで、それでいいだろうか。

いま死んだとしたら、どうなるだろうか。いまの心のまま死んで、それでいいだろうか。

つねにいま死んだらどうなるか、ということを意識して生きているかどうか。

……そこが、仏教者であるかないかの分かれ道。そう言われたことがある。テーラワーダ仏教の僧侶からだった。

お寺に暮らして袈裟衣を着て、法要を行うだけでは、仏教者とはいえない、とも。

ブッダを信じているか、ブッダの教えを学んでいるか、戒律を保って修行しているか、それも仏教者かどうかの目安にはなる。

けれども、もっとも根本的には、つねにいま死んだらどうなるか、ということを意識して生きているかどうかだ、と。


まあ、ぼくには自分が仏教者であるとか、ないとか、どうでもいいことではある。

そんなことより、いま死んだらどうなるか、そのことをつねに、忘れずにいる。つねに自らに問うていく。そのあり方が、とてもたいせつに思う。

年を重ねると、いま死んだらどうなるか、ということがリアルに身にしみてくる。

突然死した友人、知人、先輩はたくさんいる。

アメリカに出張中に、心筋梗塞で亡くなった親友がいた。30代だった。飛行機の中で心筋梗塞でなくなった先輩がいた。朝、いってきまーすと別れて、日航機で墜落した上司がいた。それぞれ50代だった。

あかりの元気な姿を喜んでくれた木工会社の社長が、先日、突然死した。こんど来たとき、おもしろい話を用意しておくよと、そう言って別れた先輩が、急死した。

次々と、亡くなっている。

これは、他人ごとではない。「死はわがごと」なのだと感じる。人はいつなんどき、死を迎えるのかわからない。

なので、いま死んだとして、どうなるか。それでいいのか。この生き方でいいのか。どうなんだ。

……それでいい、いまはそういえる人生ではけっしてない。やりのこし、心残りはたくさん。不安も後悔もたくさん。

しかし、かならず死は訪れる。かならずゲームセットはくる。来世があるとしたって、この人生は今回限りだ。

死を見据える。死は間近にありとして、生きていく。そういうことが、実感されつつある日々。