過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

さて出版企画

出版企画:まだ思いつきのたたき台。実現の構造には入らず。そのままお蔵入りも十分ありうること。

上座仏教の長老の語りおろし路線。池谷が以下のようなたたき台を作る。

すると、長老から「こんなんじゃだめだ」「これじゃあまるで、背広を着てスカート履いてるみたいじゃないか」などと叱られながら練り上げていく。

本のタイトル:
ブッダ究極の教え 犀の角のように独り歩め」
ブッダ究極の教え まったく依存しない生き方」
ブッダの教えは宗教ではない。それは生き方をしめす」
「不安とともに安心して生きる ブッダの教え」

本のだいたいの筋の流れ

◉まったく何にも依存しない

ブッダの教えの中核は、なんでしょうか。
一言でいうと、「まったく何にも依存しない生き方」「依存そのものから離れている生き方」です。

ブッダは「犀の角のように独り歩め」(スッタ・ニパータ)と説いています。
「屹立した犀の一本の角のようであれ。他に依存することなく独り歩め」といいます。

その生き方こそが、この不安の時代に、安心を得て満ち足りた生き方なのです。

宗教というと、神とか仏とか、なにか人間を超えた偉大な存在を礼拝し、祈願し、おまかせする生き方のように思われていることでしょう。

宗教でなくても、ひとは、なにかに依存して生きようとします。
依存するものは、たくさんあります。

たとえば、ギャンブルや酒、異性。親や子ども。お金、名誉、地位。あるいは、なんらかの教義、信念、イデオロギー、イメージ、価値体系、思想もそうでしょう。
いわば、ひとはつねに「依存症」「依存病」にかかっているのです。
依存するものは、移りゆくものであり確固としたものではありません。依存すると、そこに期待が生まれ、アテが外れれば悔しがり、怒りも生じます。

それこそが、不安の正体です。

それに対して、ブッダはまったく何も頼りにするな。依存するな。独りで歩めといいます。

仏教ですら依存するな、といってもよいでしょう。
その意味では、ブッダの説くことは「宗教」とはいえません。
ブッダの説くことは宗教ではなく、自由で自在な生き方そのものです。

◉備えあれば憂いあり

世の中の智慧としては、「備えあれば憂いなし」と言われます。
ブッダの教えは、備えをしない生き方です。「備えあれば憂いあり」「備えなければ、憂いなし」なのです。

すべての事象は変化するのです。いくら備えても、安心はありません。
たいせつなのは、備えそのものをしないことです。
雨が降ったら、どうぞ雨よ降れ。風が吹いたら、どうぞ風よ吹けという生き方です。

何があっても、何が起きてもよい生き方を歩むのです。
辛い、寂しい、悲しいとしたら、その事実に直面する生き方なのです。

◉今ここで実践できる道 確かめられる道

そんな生き方は可能でしょうか。
だれでも可能だとブッダは説きます。

どんな人でも歩める生き方を示しています。頭がいいとか、お金があるとか、自由な時間があるとか、若いとか体力があるとか、関係ありません。

どんな人にでも、どんな境遇にあっても実践の可能な生き方なのです。
しかも、今ここで実践できる道です。それこそ瀕死の重病人でも実践ができるのです。

いつか、そのうち役に立つというものではありません。
実践したら即結果として現れる道。まのあたり体得される安らぎです。それは、自分自身で実践してみれば確かめられるのです。

◉気づく道

それは、あるがままの自分に気づく道です。いわばマインドフルネス。

ひとは、つねに無意識に生きています。いまここにいません。
過去のことを悔み、将来を心配し、いまやっていること別のことを考えています。やっていることと頭の中はバラバラです。

たとえば、呼吸です。無意識に呼吸しています。
動作です。歩いたり立ち上がったりそのすべての行為において、ほとんど無意識に行っています。

それらの動作一つ一つに意識的にになること。気づいていること。

呼吸のひとつひとつに。行為ひとつひとつに気づいていること。
瞬間瞬間の自分の身体の動き、感情の変化に気づいていること。

それは、今のあるがままの現実をよく観る。いま、ここにいる、ということです。

世にたくさんある瞑想は、光や音だとか、神とか仏とか、いまの自分とは離れた別の世界に意識を向けようとします。いまここではなく、別の世界に行くものです。

◉いまこの自分から離れない

ブッダの実践法は、いまここの自分から離れません。
自分の身体に起きている事実、いま自分の呼吸。呼吸に伴って起きる変化。体が縮んだり膨らんだりする、その変化に気がついているのです。

何かに一心に集中しているのではありません。とくに一生懸命に励むというのでもありません。リラックスしていて、不断に、いまここの自分に気づいているのです。

何が起きても、何があっても、そのことによく気づいている。
例えば、人がしゃべっている。光がある。音がする。地面が揺れている。そのことに、ちゃんと気づいていて、そのことに動揺しない。リラックスしている。すなわち現実に直面しているわけです。

◉自己観察、自己洞察の道

この実践法を、「ヴィパッサナー」といいます。「ヴィ」とはよく、「パッサナー」とは気づく。自分自身のありように、よく気づいているということです。

この実践によって、何にも依存しない生き方が可能となるのです。その道こそが、安楽で平穏、迷いと苦しみのない道だとブッダは説いています。