過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

縁によって、どんなことでもしてしまう存在

晩年の親鸞の言葉をつたえた「歎異抄」の一節。ああ、そうだよなぁと、ときどき浮かんでくる。

そのひとつ。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」。

自分というものは、縁によって、どんなことでもしてしまう。そうせざるをえないような情況に置かれたら、どんなふるまいもしかねない。どんなに非道なこともやりかねない。人というものは、そうしたものだよ。自分はそうしたものだよ、と。

盗まないと思っていても、誘惑があって見つからなければ、賄賂をもらうかもしれない。絶対に人を殺さないと思っていても、わが身が殺されようとしたら、相手を殺すこともあるだろう。戦争がはじまれば人殺しをしなくちゃいけない。わが子が殺されたら、復讐で殺すかもしれない。盗まないと思っていても、食い物がなくて死にそうだったら盗んで食べるだろう。

「悪人」だから悪いことをするのではない。悪縁があったから、縁に従って悪事を行うのだ。悪縁がなければ、悪事を行わうことはなく、そのまま善人かもしれない。すなわち、悪事を起こさざるをえない縁がなかっただけ。

いくら修行を積んで善行をつみあげても、縁に従って、どんな悪事をしてしまうのかわからない。自分というものは、所詮は、地獄にいくような存在なんだ。このどうしようもないダメな自分という自覚。そこに親鸞の基底部にあるんだと思う。

ぼくはそこまで深い自覚にいたることはない。けれども「縁」によって生じ、「縁」によって滅するというありようは、よくわかる。

こうしよう、ぜったいこうするぞと決意していても、そうならない。縁によって刻々と変わるからだ。環境が変わる、なにより自分の心が変わる。

いい縁もあれば、よくない縁もある。縁は自分でつかむことができるけれども、大方は向こうからやってくる。予期しないでやってくる。

やってきたものが、いまの自分にふさわしい縁だということもできる。だから、縁に従って、瞬間瞬間、変化していけばいいということか。そうなると、もう、おまかせということにもなるのだが。親鸞のいう「自然法爾」のような深い意味あいではない。