過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

麻原彰晃の死刑。オウムの信徒たち6人も死刑。

麻原彰晃の死刑。オウムの信徒たち6人も死刑。日本は「法治国家」であり、法律が一番えらい。法律で死刑というものが定まっていて、判決で死刑が確定しているのだから、問題はない。

ただ生命の尊厳という点からいうと、「どんな罪悪人でも、命を奪われてはならない」ということになる。そうして、自己反省し、改悛し、まっとうな生き方立ち直らせるというのも、刑事法のひとつの役割だ。

と考えると、麻原だって自己反省し、まっとうに立ち直る可能性がないとは言えない。さらには、刑事法では、その人を罰する根拠として、「法律に違反していること」「その人に責任があること、責任能力があること」の二点がベースにある。

人を殺しても、死刑になるときもあれば、罰せられないときもある。正当防衛などは罰せられない。心神喪失していた場合も罰せられない。

麻原は、獄中にあって精神に異常をきたしていたとみられる。なので、「責任能力」がないとも思わる。そういう人間を罰することはできない、という理論もある。

ここから話を広げてみる。たくさん人を殺した時、罰せられるどころか、褒め称えられる。それは戦争だ。何万人、何十万人を殺害しても、罪には問われない。英雄とされたりする。

原爆投下し、東京大空襲で大量殺戮した人たちは、名誉あるものと讃えられた。かなしいかな、日本においては、東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官、カーチス・ルメイに勲一等旭日章を与えている。

さて、宗教的にはどうか。たとえば親鸞の教えは、「善人なおもて往生する、いわんや悪人をや」とある。悪人こそが救われる。弥陀にすがらなくても、弥陀のほうがすくい取ってくれるという考えがある。そういう点からしたら、麻原は往生するのだろうか。

禅宗真言宗もよむお経に「理趣経」(大般若理趣分)がある。そこには、「一切有情 殺害三界 不堕悪趣」とある。三界の一切の衆生を殺害しても、悪趣に墜ちることはない、とある(般若理趣の法門を奉じているならば、が前提だが)。

後期密教の『秘密集会タントラ』では「秘密金剛によって一切衆生を殺害すべし。殺されたその者達は阿閦如来仏国土において仏子となるであろう」と説かれているのだ。このあたりが、麻原のポアの思想に影響を与えていると思われる。

親鸞の教えに、縁によって人はなんでもするというのがある。心が正しいので殺さないのではない。心が正しくても、殺す縁があれば殺すものだ、と。

自分も人を殺さないとは限らない。殺さなくちゃいけない縁が起きた時、殺してしまうかもしれない。そうして、いのちあるものを食として日々いただいているのも事実。