過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

死にゆく人にはどうしたらいいですか。

昨年、スリランカスマナサーラ長老にインタビューしたときの記録。「死にゆく人にはどうしたらいいですか。なにをしてあげたらいいのですか」というぼくの質問に答えてくれたもの。

別になにもする必要がないでしょう。わたしたちに、なにかできますか? なにもできないんです。

わたしたちは、死ぬということは、よくないことだと思っています。死をなんとかして避けて、生につなげようとしています。しかし、これはできないときが、かならずきます。

やってあげられることをやってあげて、会話できるならば会話して、じゃあもうさようなら。それで、いいのです。死を覚悟している人の場合、看取ることはとてもラクなんです。

人が死ぬというのは自然で当たり前のこと。特別なことじゃないんです。

細胞はつねにたえまなく、一つひとつ死んでいる。一つひとつの細胞は、死んでは生まれ、死んでは生まれるのです。最終的にすべては壊れてしまう。わたしたちもおんなじです。

呼吸することは、自然なこと。そのことをわたしたちは、不思議に思いません。呼吸は自然のことであって不思議に思わないなら、死ぬことも同様です。

そもそも不自然でありえないということは、この世の中でひとつも起こりません。地震が起きたら、たいへんだと思います。どうしてでしょうか。自分の気持としては、「地震が起きてほしくない」と勝手に思っているだけなんです。

自分の妄想概念と世界がかみあわないだけ。あらゆる問題は自分の妄想から起きます。自分が勝手に妄想で作って、それで苦しんでいるのです。だから、妄想をやめればいいのです。

人の死のことよりも、わたしたち自身が、死の準備をしなくちゃいけない。

いつ死んでも不思議はありません。死はどんな人にも起こることで、避けられません。将来のことをあれこれ考えても意味がないですが、自分の「死」についてはよく考えてほしい。それだけが現実です。ほかのことは、どうなるかわからないんです。

予言できるのは、たったひとつ。「あなたは死にます」。それだけです。

世の中の予言者はみんな嘘を言っています。予言は不可能です。そして、たった一つだけ確実な予言。それは、「あなたは死ぬ」ということです。あなたは死にますというと、失礼だから、わたしは死にますというんです。あまりに調子に乗っている人がいると、「あなたはいつか死にますよ」と言ってあげればいいんです。

ある高齢の長老が、とても熱が出て体が震えてしまいました。自分が死ぬことが怖くなってしまったんです。そして、病床でお寺はどうやって自分が発展させたとか、どうやって苦労したのかとか、鍵はどこにあるかとか、もう落ち着かない。あまりにうるさくて、聞いておられない。自分が死んだら弟子たちは、どう管理したらいいかとか。それは執着なんですね。そんなことはどうでもいいことなんです。死んでしまうんですからね。

そこでわたしはいきなり、「先生、死なないと思っているんですかね」と言いました。いきなりとても失礼な態度でしたが、あえて失礼にいいました。お坊さん同士、丁寧な言葉をつかうというしきたりがありますが、それを破って言いました。その途端、返事もできなくなって、おとなしくなりました。そのまま車で病院に行きました。

死にたくないと言う人がいたら、「どうぞみんな持って行ってください」と言ってあげてください。私が苦労して築いた会社ですという人がいたら、「どうぞ持って行ってください」と。

その一言は、禅の考案みたいなものです。「どうぞ持って行ってください」と言われると、もっていけないことに気づくんです。それで心が変わると思います。静かに黙ると思います。それで執着が減ります。執着が少なくなったら、死後は幸せなところに生まれます。