過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いろいろな逝き方

この山里では冬のキャンプが繁盛している。そんなキャンプ場で、川沿いにテントを張って、中3の女子が練炭自殺した。先月のことだ。また、ちかくの川沿いで、首吊りをはかって救急搬送された人もいたと聞く。

中3の女子はSNSで出会った30代の男と一緒に死ぬことにしたらしい。その女子はなくなったが、男は「自分だけ生き残ってしまった」という。

たまたまその現場に行った。気田川の前にさあっとひらけた、爽快なキャンプ場だ。
キャンパーに声をかけて立ち話したら、「あそこで、練炭自殺したんだよ」という。

真相はよくわからないが、なんでも医者の娘で、進学校に受験したが不合格だったのを悲観したとも聞く。7年前にその中学で講演を頼まれたことがあったので、その子たちの整然としたお利口そうな姿とかぶる。
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若すぎる。ざんねんすぎる。可能性が無限の宝のようにいっぱいあるのにもったいない。

本人にしたら、いい高校、いい大学、医者の後を継ぐ。その道しかないと思ったのだろうか。その世界しかない、そこに至る道が閉じてしまい絶望に陥っての自殺なのだろうか。

いまの時代、高校や大学などどうでもいいと思う。どんな環境にいても、インターネットを通して学べる。本から学べる。むしろ、働いて実社会での学びのほうが、価値があると思う。医者とか特別な資格を得るには、高校や大学は必要なんだろうけど。

あるいは、インドやら東南アジアにでも旅でもしたら、人生観は大きくストーンと大きく変わったろうになあとも思う。
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死んでしまったらそれでおしまい。自殺というのは、死後も苦しむ。後悔する。呪縛霊になる。なにより残された人が悲しむ。つらい。ゆえに自殺はよくない。

そういう考えが主流と思う。
しかし、そうだろうか。ぼくはそうはおもっていない。

もしかしたら、どんな死に方をしても、死の世界はゆうゆうと広がる、安穏とした素晴らしい世界かもしれない。死んで戻ってきた人は、だれひとのいないから、そこはだれもわからない。

ときに死者や先祖を霊視する人がいたりするが、さてどこまで真実なのか、その人の思い込みも主観もあるから、にわかに信じがたい。
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いろいろな死に方がある。楽に逝きたいものだと、施設の利用者さんとはいつもその話になる。ぽっくりがいいんだけど、そうもいかない。とても難しい。

死は恐ろしい。しかし、死そのもそのは、瞬時のこと。しかし、死に至るまで、じわじわし苦しみ、痛み、不自由になって、希望を失い……それがつらいということだろう。そのつらさから離れるために自死を選ぶ人もいるわけだ。

自死の方法としては、練炭自殺が流行りではある。まあ、眠っているうちに逝ってしまうのは。首吊り、入水、身投げとなどよりは、いいかもしれない。

自ら死を立ってもいいと思うし、生きていていもいい。いろいろな選択肢がある。

それしかないというこは不自由だ。いろいろな道がある。自ら死を選んでもいいという選択肢だってある。それはまた、いまの生き方を真摯に生きることにも通じる。いつでも死ねる、死んでいいという選択肢があるのも、なにか安心というか、安全弁というか。そのことで、また生を精一杯生きられるような気もする。

ぼく自身は、自死を選ぶとしたら、断食死が一番の理想なんだけどね。過去10日間の断食を二度経験して感じたことで、爽快に逝けそうな気がしている。