仏教のひとつの大きな基軸は、「リアリティ」じゃなかろうか。
まあ、仏教と一口にいっても、定義が難しい。仏教は長い歴史を経た膨大な思想体系で、その国、土地、時代によって変容もしている。たくさんの宗派や学説があり、それぞれ食い違っていたりする。
ということで、ひとつの見方、とらえかた。あるいは思考実験。仮設。
「リアリティ」とは、現実。実際。観念の色眼鏡がない。価値判断がない。いい・悪いがない。願いや思いもたない。
仏教は、いまここの現実に立つことを教える。それは、自ら実感し、体験し、確かめることのできる世界をしめす。
じゃあ、原始仏教のリアリティってなんだ。
たとえば、最古層の経典である「スッタニパータ」にはこういう言葉がある。「自己の安らぎを学べ」とか「伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎ」などと。
あるいは、『大念処経』](マハーサティパッターナ・スッタ)では、自らの吐く息、吸う息にただただ気づいていることを説いている。以下、経典から──。
〈長く出息すれば「私は長く出息する」と知り、長く入息すれば「私は長く入息する」と知る。
短く出息すれば「私は短く出息する」と知り、短く入息すれば「私は短く入息する」と知る。
「呼吸をしている全身に気づいて私は出息しよう」と努め、「呼吸をしている全身に気づいて私は入息しよう」と努める。「呼吸全体を静めて私は出息しよう」と努め、「呼吸全体を静めて私は入息しよう」と努める。
例えば、熟練した轆轤(ろくろ)工あるいはその弟子が、轆轤の紐を長く引っぱれば、「私は紐を長く引っぱる」と知り、紐を短く引っぱれば、「私は紐を短く引っぱる」と知る 〉
呼吸の吐く息、吸う息に意識を向けること。呼吸を意識することによって得られる痛み、重み、冷暖の差、膨らみ縮み、そして安らぎ。すなわちからだの実感、こころの実感。そこに立つこと。徹底してそのリアリティに立つこと。
そうしたとき、この世界は、「苦」であり「無常」であり「無我」であると、わかるといえようか。はじめから、この世界は、「苦」であり「無常」であり「無我」であると観念として理解して、世界を見るのではない。
観念や価値観や教義を持ち込まないで、徹底して、わが身体のリアリティに立つ。そのことで、理解されていくのではないか。そこが、原始仏教の基軸であると。
「リアリティ」というのは、あくまで原始仏教の基軸で、大乗仏教にはあたらない。ましてや密教や、日本仏教には。ただし、道元禅師は原始仏教の基軸にちかいと思っている。
この軸とは異なる方向が、「信仰」と思う。信仰は「リアリティ」ではない。観念、思い、願い教義が入ってくる。リアリティが正しくて、信仰がダメだという意味ではない。
たとえば、人智を超えた存在。阿弥陀さまや観音さま、あるいは久遠実成の釈迦如来、大日如来。そういう存在がおわす。大乗仏教や密教ではそういうことになる。
これは、いわば信仰の世界。自分ではたしかめようのないこと。信ずる世界であること。それは、アッラーやエホヴァがおられるということと、かわらない。
あるいは神や仏ではなくても、ひとつの観念。来世がある、輪廻があるというのも、同様とおもう。これも、自分でたしかめようのないこと。
ということで、仏教のひとつの基軸は、信仰には立たない。リアリティに立つこと。みずからがたしかめられること。まのあたりに体得できるところ。すなわち、いまここの自分に立つこと。
そのリアリティに立つ、大きなポイントは、自分の呼吸につねに気づいているというところ。