「永代供養」ってなんだろう。永遠に供養する、供養される、ということだと思うが、そんなことはきっとありえない。
お寺の墓地に埋葬したとする。しかし、お寺が永遠につづくはずがない。また、子孫に係累がなくなり、無縁墓になるかもしれない。無縁墓になれば、お寺は墓をまとめて処分することになる。おそらく合同の墓地に移される。
そもそも、「供養」ってなんだろう。
お寺にあって、お坊さんが朝晩のお勤めでお経をよんで、「願わくはこの功徳をもって……」と念じること供養になるのだろうか。彼岸に墓参りして、子孫が墓前で手を合わせることが供養になるのだろうか。
そうして、墓地に先祖がいるのだろうか。
たぶん、いるはずないと思う。あるいは、千の風になって自由に飛び回っている先祖がいたとする。子孫が、墓参りするときに、墓を依代にして異次元からやってくるのだろうか。どうもわからない。
インドの死生観では、死んだらまた次の生を受けて、生死生死を繰り返す。供養が必要なのは、死んで次の生を受ける間(中有=四十九日)だ。次の生のために、遺族が死者を励まし、守り、エンパワーすること、それが供養ということになる。
なので、それ以降は生を受けてしまっているから、供養の必要はない。だから墓もない。灰にしてガンジス川に流してしまう。
これはいい風習だと思う。死んだら自然に還る、宇宙に戻す、循環していくというのが、いいように思う。
石の墓を立てて、土中の骨壷にずーっと収めておくことが、供養になるとは思えない。どんなに豪華な墓があっても、そんなものが供養になるとは思えない。
まあしかし、遺族の満足というところでは、わかる。墓を核として、係累があつまる。そこの意味はあると思うけど。しかし、そのために墓か必要なんだろうか。そこを考えてみたい。