過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

寺院消滅のリアリティ

お寺の裕福度は、檀家の数による。お寺の経済基盤は、檀家である。祈祷寺、観光寺、広大な不動産所有の寺などは、檀家は関係ないが、日本のお寺の大勢は檀家寺である。

収入は葬儀・法要のお布施ということになる。檀家の数によって、今年はどれくらいの葬儀があって、法要があって、墓地の管理費が入って、という計算が成り立つ。たとえば、檀家の数は200軒はないと、お坊さんは専従ではやっていけないと言われる。そういう寺のお坊さんは、村役場に勤めたり、教師をしたり兼業することになる。

お寺は、維持管理がたいへんだ。広大な敷地があり、建物の掃除と草刈りがある。人を頼めば人件費がかかる。老朽化して崩れたり雨漏りすれば、修復が必要だ。ということで、かなりの費用がかかる。そこは、檀家に勧募(かんぼ=寄付を募る)することになる。檀家の数が少ないと、一軒一軒の負担が大きくなっていく。

そこで、「お寺とのつきあいには、金がかかる」ということになる。葬儀や法要だけではない。やれ御遠忌(祖師などの回忌)だ、やれ晋山式(新住職の就任式)だの、なにかの節に建物を建てたり修復したりする。晋山式など、こんな山里でも一千万円以上もかかったりしたと聞いた。なかには、たいして必要ないのに、塔を建てたり山門を建てたり、本堂を新築したりということもある。

そのたびに、お金がかかる。しかも、お坊さんが、当たり前だみたいな顔をして、威張っていたりすると「寺離れ」が起きてくる。それで、山里では、集落みんなが神道に鞍替えしてしまったりする。神道は、葬儀に金がかからない、やれ建物の修復だのと、寄付を依頼されることは少ないという理由だ。

さらには、山里は人口がどんどん減少している。うちの山里は、この10年で22%の人口減。子どもはいない。お年寄りばかりになっている。やがては集落は消滅する。檀家そのものがなくなるのだから、お寺がやっていけるはずもない。

そうして、お坊さんの葬儀は必要ない、墓は必要ないという風潮がきている。あるいは、Amazonのお坊さん便やイオングループのように、低価格で葬儀を行うようにもなってきている。ということで、お寺そのものの存続が難しい時代にきている。

では、なにをしたらいいいのか、というと、これが難しい。そうして、宗団としていろいろと手を打つ必要があるのだけれど、宗団を支える本部に務めるお坊さんは、概して余裕のある裕福な寺の師弟が多いので、寺院消滅のリアリティがないともいえる。