過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

こんな山里でも、意識の変化が起きている。

ランの散歩で出会う人との立ち話。みなさん80を越えている。
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いつも杖をついて出会うKさん(81歳)。がっしりした体格だが、営林署の仕事で土砂に埋まり脊髄を損傷して、以来、歩くのがつらいという。
そんなKさんは言う。「墓など、いらないなぁ。永代使用料を支払って墓を立てようとしたが、馬鹿らしいからやめた。子孫があとあと墓守するとも思えないし、死んだらおしまいだから、どうでもいい」。
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こないだ布絵の個展をひらいたTさん(83歳)。「最期になったら、池谷さんにお経を読んでもらって、あとはよろしくおねがいしたい。お墓なんていらない。おまかせします」。
近所のAさん(83歳)。「わたしが死んだら、ひっそりとした葬儀にしてもらいたい。主人のときは、盛大にやったけど、村人との対応でとても疲れた。主人としんみりと時を過ごす時間もなかった」。
こないだ囲碁を教えてもらったTさん(81歳)。次男坊で先祖の墓はない。「墓を作りたいとは思わない。合祀墓でもいいし、いっそのこと、粉末にして畑にまいたり、山にまいたり、川に流してもらえばいい」。
昨日、訪ねてこられたTさん(77歳)。「妻が亡くなったら、自分の手製で棺桶を作る。お墓は要らない。遺灰の一部を納める彫刻のモニュメントを部屋に置けばいい」。
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こんな山里でも、こうして着実に意識の変化が起きてきている。
けっして、先祖供養を否定しているわけではない。墓とか戒名とか盛大な葬儀とか、そういうものに意義を見出していない。
けれども、自分たちで心を込めてやりたいとは思っている。しかし、いざ死んだ時、遺族に選択肢が少ない。問題は、自分が死んでしまった後だと、なにもできないことだ。
どのように生前の希望を具体化していくか、その道づくりをしていきたいのだが。