過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「墓じまい」③

友人は、お寺に電話一本で「墓じまい」をした。墓も遺骨もそのままだ。「墓は先祖が勝手にやったことで、私は知らない。永代使用権の放棄による請求もしない」と伝えて、完了した。

「じゃあ、自分が亡くなった時、遺骨はどうしようと思っているのか」と聞くと、「まあ適当に、散骨してもらえばいい。いや、別に散骨しなくてもいい。ただ、法に引っかからない範囲で適当に処分してもらえれば、それで十分」という。

ぼくも似たようなものである。遺骨に対して、とくに崇拝の念はない。ましてや、墓などに入りたいとは、思わない。どんな立派な墓であれ、遺骨は墓の下のカロートの中にある。コンクリートで固めた暗いジメジメした所に、骨壷がある。そして、土には還らないのだ。

そんなところに遺骨が保管されるよりは、川や山や海に遺骨を磨り潰して粉にして撒いてもらったほうがいい。インドでは、遺灰はガンジス川に流されさる。お墓はない(キリスト教やモスリムには墓はあるが)。

こないだ妻とあかりを連れて、久しぶりにお墓参りに行った。「あかりもこんなに大きくなりました」と先祖に報告し、みんなで一緒に南無妙法蓮華経と唱えてきた。

お墓に先祖がいるわけじゃない。けれども、ひとつ心を集中し感謝の場だと思ってお題目を唱えた。

ぼくは日々、お経をよみお題目を唱えている。毎日、先祖と対話している。毎日、墓参りしているようなものだ。特別にお墓だからという意義はない。

「ぼくが死んだあと、この墓を誰が維持するか」という考えた時に、「お墓などないほうがいい」と思った。自分は死後、けっして墓にはいないし、先祖がいるわけでもない。

「ぼくが死んだらお墓に入れないでね。この墓の中に入りたくないないからね」と妻に言う。「それはいいいとして、あなたが亡くなる前に、この墓は処分しといてね」と言われた。そうか、先祖の遺骨か……。どうするか。みんなまとめて、粉にして海にまくのがいいか。

いまのお墓は市民霊園にある。なので、お寺との付き合いは一切ない。そしてまた、母親の葬儀に時、ぼくはお坊さんを呼ばないで、自分でお経よんだ。四十九日も一周忌も納骨の時も、全部自分がお経をよみ供養をした。

親をおくるのは、子の務めと思う。お坊さんを呼ぶ必要はなく、自分でお経を読めばいい。いや、お経など、そもそも必要ない。死者のためのお経など、一つもない。

お坊さんが葬儀を営むのは、江戸時代あたりからだろう。せいぜい数百年か。奈良時代の「僧尼令」には、「僧侶は葬儀に関わるな」と書かれている。

墓のことに戻る。市民霊園ということで、管理料はかからない。コンクリートで固めてあるので、周りに草も生えない。そのまま放置しておいても何ら問題はない。お墓は立ったままでも、何も迷惑がかからない。風化しても問題ないと思う。

ともあれ、お墓はこれから必要ない、遺骨は海や山にまいてほしいという人は、増えてくるように思う。