尊敬するドナルド・キーンさんが亡くなった、96歳だった。
「暴走黙殺の果て」 2015年8月9日
七十年前の今月、太平洋戦争が終わった。戦時中、米海軍通訳士官だった私は、多くの日本人捕虜と接してきた。その数は何百人になるだろうか。全員がそうだったわけではないが、多くは捕虜になったことを恥じていた。「どうせなら死んだ方がよかった。殺してくれ」「日本には帰れない。家族に合わせる顔がない」と頭を抱えた。
「日本兵が捕虜になったことはない。神武天皇の時代からの伝統だ。捕虜となるなら玉砕せよ」と、日本兵はたたき込まれていた。いわば洗脳である。一九四三年五月、日本軍最初の玉砕の地となったアリューシャン列島のアッツ島の戦いに私は参加した。
日本兵は勝ち目がなくなると、最後の手りゅう弾を敵に投げるのではなく、自分の胸にたたきつけて自決した。そんな遺体が散らばっていた。全滅ではなく玉砕。他の国ではあり得ない光景だった。
民間人も「女は辱めを受け、男は戦車にひき殺される。捕虜になるなら自決しろ」と言われていた。サイパン島では若い母親が幼子を抱えて次々と崖から飛び降りた。その悲劇を米誌が報じると、日本の新聞はそれを「日本婦人の誇り」と美化して伝えた。
日本兵は本当に捕虜になったことはないのかと、私は疑問に思い、戦時中に調べてみた。すると、日露戦争では多くの日本兵が捕虜になった記録が残っていた。捕虜の扱いについて定めたジュネーブ条約を盾に、「ウオツカを飲ませろ」と収容所の待遇改善を求めた将校までいた。
反戦的で親米派といわれた吉田茂元首相の長男の健一でさえ、「暗雲が晴れて陽光が差し込んだ」と興奮気味だった。伊藤整は「この戦争を戦い抜くことを、日本の知識階級人は、大和民族として絶対に必要と感じている」「民族の優秀性を決定するために戦うのだ」と書いた。
当時、南洋諸島で最大の飛行場があったテニアン島を奪った米軍は、日本各地を空襲した。私は不思議で仕方なかった。イタリア、ドイツが落ち、日本は勝てるはずもないのになぜ降伏しないのか。勇ましい大本営発表は続いた。一方で東京は大空襲で壊滅状態に。沖縄は占領された。広島と長崎に原爆が落とされ、何十万人もの命が奪われた。
戦後、私が知り合った日本人の大多数は「勝てるはずがなかった」と自嘲気味に話した。だが、分かっていたなら、なぜ開戦したのか。旧満州(中国東北部)の建国に続き、日本軍のフランス領インドシナへの進駐で日米関係は決定的に悪化した。外交交渉には譲歩も必要だが「神の国」は突き進んでしまった。
太平洋戦争に至る過程では、権力中枢のごく少数が国民をだましたといえる。だまされた国民は兵士となって加害者となり、被害者にもなったのだ。だが、問題の根幹は日本政府、そして体制に迎合した国民による現状の黙殺だっただろう。
以上、転載終わり。