過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

自分なりに心のこもった供養の仕方があるのではないか。そこを探求している。

延命治療はいらない。葬式は必要ない。家族だけの密葬でいい。お墓はいらない。遺骨もいらない。海か山にまいてくれればいい。

そう思っている。この考えに賛同するひとは、どんどん多くなっていくように思う。

日本古来からの基底部にある(と思われている)、遺骨をたいせつに、先祖供養をたいせつに、お墓を守る、という考えは薄らいできている。急激に。

こう書くと憂いをもつひとがいる。日本人の心が荒廃してしまう、と。

しかし、遺骨をたいせつに、先祖供養をたいせつに、お墓を守るっていうのは、そもそも日本人の古来からの考えじゃないのかもしれない。お墓をつくる、石の墓をつくるなんてのは、新しい。火葬は戦後からだし。以前は、村の共同墓地みたいなところに埋葬されていた。そのとき、木の塔婆は立てたかもしれないけど、庶民は石の墓までは建てなかったろう。

葬式はもちろんあったほうがいい。しかし、盛大にやる必要はない。戒名などまったく不要だ。わざわざお坊さんにきてもらう必要もない。お墓などあっても、あとで困るだけ。だいたい、墓の下に故人がいるわけじゃない。そこに先祖などいない。

先祖供養を否定しているわけじゃない。葬儀とか、戒名とか、お経とか、お墓とか、そういうものをともなわないで、自分なりに心のこもった供養の仕方があるのではないか。そこを探求している。