過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

お墓参りと戒名について

栗の渋皮煮を作ってくれると言う。バケツいっぱい栗を持っていった。Mさんは一人暮らし79歳。「こんだけあったら徹夜で仕事ができてありがたいわ」と言っていた。

「それにしても、今日は、疲れた疲れた」という。引佐という集落に友人と一緒に墓参り行ってきた。友人は名家らしくて、とても大きくな墓で草刈りが大変だった。戒名も「大居士」というのですごかったとか。
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そうか「大居士」って、いまだに山里ではすごいという風に思われているんだなあ。
しかしまあ、戒名はその人の生き方とか関係ない。家柄とか、そのお寺に対する貢献度、さらにはお布施の多寡で決まったりするわけだ。

かつては、お墓が大きいとか、戒名がすごいとか、どこそこの寺の総代をしているというのは、家柄とか財力のシンボルであったろう。

しかし、いまの時代、ほとんど無意味。戒名が立派だと、葬式や法事にえらくお金がかかることになる。お墓が遠くにあってやたら大きいと、草刈りの苦労しかない。
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Mさんは言う。「お墓なんていらない。かえって子孫に迷惑をかけるだけ。海や川や山に灰にして撒いてくれればいい」という。

そもそも仏教徒でないのに戒名なんて意味がない。仏になろうと発心して修行する時に必要なのが、戒名だ。俗世を断ち切って出家者として歩むためのホーリーネームだ。

それに、死んでから修行などするわけがない。なかには修行する人がいても、そんな戒名など全く意味がない。だいたい坊さん(しかも家庭持ちの在家)が「戒名法名大事典」みたいなものをめくって、つけたようなものだ。さらにまた、そこの宗派は「来世などありません」と言い切っている。

戒律の内容も、生き物を殺さない、嘘をつかない、盗まない、異性と交わらない、酒を飲まないの五戒が基本中の基本。これを守っている坊さんに出あったことがない。戒律を守っていない人が他人に戒律を与えて、それでお布施をたくまりいただくことの矛盾。

お金がたくさんあって余裕があれば、そのように大きなお墓を作って満足すればいい。だが、墓にしてもいくら大きくても、地中の骨壷の中出し、そんな暗くてジメジメしたところに、死後、居座り続けるわけがない。供養にはならない。
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死後があるとして、死者がさまよっているとして、大切なのは、お墓や戒名や葬儀ではない。遺族の心だと思う。遺族が個人を偲ぶこと、それが供養になる。

墓に行く必要もない。家に小さな仏壇があって、そこに遺灰を置いて、しばし合掌すればいい。いや、仏壇も位牌もいらない。木を組み合わせて、自分で作った人もいる。書体はパソコンの活字だ。

なんだっていい。つねに先祖の徳を偲ぶことがたいせつで、その意味では常彼岸、常お盆。
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そしてさらに言えば、死んで転生しているとする。そうしたら、自分の親友とか家族とか親しい人に転生してるかもしれない。とくに憎たらしい人もいるかも知れない。ともあれ、縁のあった人に優しくする。力を貸す。サポートする。そういうことこそが先祖供養になるのだと思う。

ぼくはあかり(6つの娘)が母の転生と思って、遊ぶことにしている。娘をおんぶする時、いつも先祖をおんぶしているような気がしている。

いずれにしても日本に墓は必要なくなる。骨に対する執着はなくなる。そして法要についても、もっとシンプルになる。葬送のためのお坊さんも必要なくななる。

在家の人が暮らしの中で供養するという道に入っていくう。大切なのは、生き方そのものである。それこそが先祖供養の本義だ。そう思っている。