過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

戒名についての、ぼくなりの結論

戒名についての、ぼくなりの結論。戒名などなくても問題なし。来世があるとしても、戒名の有無、高下とは関係ない。俗名でもまったく問題なし。
戒名をつけてもらいたいひとは、つけてもらえばいい。だが、いくら立派な戒名をつけてもらっても、そのひとの来世にはまったく関係ない(来世があるとしたら、だけど)。

来世にもっていけるものがあるとしたら、そのひとの生きてきた歩み、心の底のほんとうの思い、人間性の徳のみ。それこそが、まさにそのひとの戒名。

その意味では、自らの原因を自らが結果として受けるのみ。今の人生も、つぎのありようも。

寺院経営の点から、お坊さんの立場に立つと、戒名は必要。葬儀と戒名によるお布施がなければ、お寺さんが立ちゆかなくなる。なにしろ寺院の維持管理は、すごく費用がかかる。自分たちの寺族の暮らしも立ちゆかなくなる。ので、戒名不用などと公言してもらっては困る。その立場はよく分かる。そして、良心的なお寺さんもあることも事実。

ただ、これまでのようなありようでは、お寺離れは急速にすすむ。お坊さんは必要ない、戒名は必要ない、お墓も必要ないという意識がひろまってきているのも事実。

お寺さんは、もっともっと地域の拠り所になってもらいたい、社会貢献をしてもらいたい。その意味で、そういうお寺さんのネットワークを、いまつくりたいと思って活動しているところ(神社・寺カフェ)。

ほんとうの故人の供養は、お坊さんにしてもらうものではない。遺族が故人を偲ぶ心こそが供養になる。亡くなったひとが、肉体がなくなっても「ある」「いる」としたら、遺族の心はちゃんと通じていく。

供養の心は通じていく。だからこそ、日々の供養がたいせつ。家庭のなかで、それなりに小さな祭壇をもうけて、毎朝、故人に語りかけるような思いで、伝えていけばいい。お経はよんでもよまなくても関係ない。お経は、心をしずめ、心を集中するのには効果がある。とてもよいものだ。

それなりに、自分が気に入ったお経をならえばいい。「延命十句観音経」のような数行のものでもいい。お経じゃなくても、詩でも歌でもいい。

たいせつなのは、故人を偲ぶ心。そこを外して、立派な葬儀、立派な戒名、立派な仏壇、お墓、位牌を安置しても意味はない。そう思っている。