漢文と日本仏教(3)
インドにはじまった仏教が、中国において漢訳され、それが日本にきた。日本にあっては、漢文の文法構造を解体して、独自に本覚思想を展開したという話を書いている。とくに鎌倉仏教の、日蓮、道元、親鸞とみていきたい。
で、日蓮は2回目。前回は「自我得仏来」(我・仏を得てよりこかた)と読むべきところを「我仏来、自ずから得たり」と読んでしまうことを書いた。
「我・仏・来」は、仏の三身(法身如来も、報身如来・応身如来)をあらわすと読んでしまう。その仏の三身は修行してはじめて得たものではなくて、ほんらい仏であったのだ。わたしたち衆生も、みんなもとより仏を得ているのだ、自得しているのだ、と。
そして、今回も『法華経』のなかの言葉。「我実成仏已来無量無辺」である。
普通に読めば「我実に成仏して已来、無量無辺」となる。わたし(釈迦)は修行して仏の境地を得た。けれども実は、この世で得たのではない。無限の過去、無限の空間において、仏であったのだ。そのように、『法華経』で説かれているところだ。
そうして日蓮はこう展開していく。「我実(がじつ)と成(ひら)けたる仏にして、已も来も無量なり無辺なり」(御義口伝)と。
我とは、わたしたち一切衆生のこと。実とは無作三身の仏。成とは開く。法界無作の三身の仏と開く。仏とは此れを覚知するのだ、と。
わたしたちは、仏になるのではなくて、「仏とひらく」のである。獲得するものではなく、もとより得ている。それを胸中からひらいていくのだ、と。
そうしたとき、「已も来も無量なり無辺なり」。過去も未来も無量無辺。すなわち、過去もない、現在もない。永遠の現在があるのみである。永遠の現在、この瞬間において、いまここに生きること、それこそが仏を覚知することである、と。(かなり池谷解釈が入っているけど)