過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

漢文と日本仏教(2)日蓮と本覚思想

漢文の構造を解体して、独自な仏教思想にまで展開していこうとした。それが、たとえば「本覚思想」だと書いた。

「本覚思想」とは、修行することなく、人はもとより悟りを得ているという考えだ。この「本覚思想」を基盤として、鎌倉仏教が展開されていく。道元親鸞日蓮もその影響を受けている。

まず、日蓮をみてみよう。「御義口伝」(おんぎくでん)という日蓮による口伝の書がある。日蓮の『法華経』講義の深秘解釈が述べられているのだが、後世に偽作されたものと思われる。内容は「本覚思想」そのものである。

たとえば、こんなことが述べられている。『法華経』の如来寿量品には「自我得仏来」とあり、普通に読めば「我、仏を得てより来(このかた)」と訓読する。

釈迦が修行をして悟りを開いた(仏を得た)より、今に至るまで、というような意味だ。

それを、日蓮は、漢文の文法を解体して、ものすごい読み方にしてしまう。

すなわち「我・仏・来、自ずから得たり」と読んでいる。我は、法身如来、仏は報身如来、来は応身如来ということで、仏の三身をあらわしている。その仏の境地は、「自ずから得たり」「自得なり」というわけだ。

修行して仏を得るのではなく、もとより仏である。自ずから仏を得ているのだ、と。そして、日蓮の弟子たちが、南無妙法蓮華経と唱えるのは、この自得の境地であると。