過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「自由法華道場」─日蓮の中核思想になぜ偽書が多いのか─

ZOOM楽座の次の企画。まだ思案中。「自由法華道場」─日蓮の中核思想になぜ偽書が多いのか─
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日蓮の遺文は、人をひきつけてやまない。弟子や檀越に対する手紙類など、心のこもった勢いのあるものが多い。法門を論じたものも、論旨明快である(やや形式論理的だが)。
とくに名文と感じるのは、「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」「御義口伝」「阿仏房御書」などである。これらは天台本覚思想をベースにした論であるが、いわば日蓮思想の中核とも思われる。
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さて、これらの中核的な著作は、実は後世の偽書だ(滅後100〜200年後にわたって日蓮に仮託して創作された)という疑念がある。
日本の仏教の祖師たち─たとえば、空海法然親鸞道元には、そういった偽書は、ほとんどみられない(最澄は除く)。
ところが、日蓮においては、偽書あるいは、書き加えたり、挿入したり、都合よく改ざんされている著作がみられるのだ。
どうして、そのようなことが起きるのか。その背景をみていく。
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日蓮思想の中核はなにか、を探求することが目的である。
しかしそのために、どういう遺文が真蹟で、あるいは真偽未決、あるいは偽書として扱われているのか。その根拠はなにか。そんなことを語り合う必要が出てくる。書誌学、文献学的な話題になるが。
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さて、仏教そのものが、偽書あるいは創作運動ということもできる。とくに大乗仏教は、釈迦に仮託された創作文芸である。さらには、龍樹や世親の著作のほとんどが、かれらに仮託された偽書であろう。
古典中の古典、馬鳴の「大乗起信論」ですら、中国での創作という研究もある。『法華経』の開経である「無量義経」も中国創作説が濃厚だ。
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ある意味では、仏教とは、ブッダからはじまる大創作運動とも言えるか。みんなが寄ってたかって、自分たちに都合よく勝手に作り上げて、これぞブッダが、祖師の書いたものと言ってしまう体質があるのではないか。
それが、いかにも仏教という懐の広大さであり、あいまいさであり、魅力とも言える。そんなことも視野に入れた語らいをしてみたい。