仏教とはブッダの教えである。
ブッダの教えは何か、というとき、それは「三法印」に示される。
「三法印」とは「苦」「無常」「無我」をいう。
この3つのポイントが、仏教が他の哲学や宗教と大きく異なるところだと思う。
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ちとややこしいが、大乗仏教や密教は、「三法印」を説かない。
まったくの逆方向、すなわち「常・楽・我・浄」と説く。
「無常」というブッダの教えに対して、「常」なるものを説く。永遠の久遠仏とか、阿弥陀如来とか、仏性とか如来蔵とか、根本浄識などと説く。
大乗仏教がブッダの教えと大きく逸脱していることは、また別の機会に論じたい。
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主題に戻って、「三法印」だ。
「苦」は、苦しみというよりも、不満足。どこまでいっても満ち足りない状態を指す。これは、いままでの暮らしいまの暮らしをみて、よくわかる。まさに、苦である。
「無常」は、瞬時として変化しないものはない。万象が、自分自身が。それも、観念ではなくて、暮らしの中の生活実感として、分かってきだしている。
さて、問題は「無我」だ。
我=自分が、じつは存在しない。
ここがわからない。
自分が実在してこその人生であり、世界である。
こうして書いている自分がまさにいる。考えている自分がいる。感情を持った自分がいる。動作を行う主体としての自分がいる。
ブッダは、そういう確固とした自分がいないと説いているのだろうか。
ここが、生活実感としてわからないのだ。
わからないながらも、いつも考えている。
自分がいる、自分がある、というところからいろいろな問題が生じてきます。それはわかる。
しかし、それがないと、わが人生ではないというところ。自分がなければ、現象だけがただあるというところ。それでいいのか。そうなのか、というところ。
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テーラワーダ仏教の長老からは、こう言われたことがある。
「瞬間瞬間に気がついている。そうすると、自分がいないということがわかります」
──でも、気づく主体しての自分は、いるんじゃないですか?
「自分はないんです。そして、あるのはコンシャスネス=識、気づき だけです」
自分はいない。しかし、あるのは、コンシャスネス=識、気づきだけ。
なるほど。そうなのか、そうかもしれない。
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そう感じつつ、解けない課題としてある。以来、40年。
でも、瞬間瞬間の気づき(呼吸、動作、感覚、感情、思考の生滅)に徹していく時、もしかして、瞬間瞬間の気づきだけが存在している。そして、そこに自分はいないのかもしれない。
と、ふと思う時がある。
言葉にするのは難しいが、いまの歩みの一つとして書きとめてみた。