過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

戦死した瞬間に神となる

材の仕事で九段下に出かけた。せっかく九段にきたのだから、と靖国神社を参拝した。遊就館に入って、いろいろな戦争のため武器をみてまわった。その最後の部屋には、戦死された方たちの御影(みえい)が飾られてあった。

御影の下に書かれた氏名にはみな「◯◯命(みこと)」とついている。命、すなわち神である。英霊である。

神道における死者のとらえ方はこうだ。死んだばかりの人間は、「荒御霊」(あらみたま)であり、まだ、たましいは鎮まっていない。三十三年間の鎮魂儀式をおこなってようやく「和御霊」(にぎみたま)となる。そして、祖霊となって子孫たちを護る、と。

ところが、かれら戦死者は、戦死した瞬間に英霊=神となったのである。そして、靖国神社に祀られる。三十三年間の鎮魂儀式をまつ必要はない。そうしてかれら神たちは、集合霊として、祖霊として、大和魂として、国を護る。これが、国家神道の解釈である。

これは、従来の神道の考えではない。明治維新の時に、新しい国教として国家神道がつくられた。国のために戦士したひとたちの扱いをどうしよう、というところからつくられたのだと思う。

お国のために亡くなったのに、「荒御霊」(あらみたま)のままでは具合が悪い。ではこうしよう。戦死した瞬間に、神となるのだ。そうであれば、遺族もよろこぶ。そして、みんな喜んで戦地に赴くのではないか、と。

ちなみに、空襲や原爆で亡くなった方はどうなのかというと、命(みこと)ではない。靖国神社に祀られてはいない。