平将門が討死したのが、きょう2月14日。一千年前の天慶3年(940)。みずから新皇を称して挙兵。敗れて斬首、さらし首となる。この絵は、北斎の描いたもの。
無念を残して亡くなった武将や貴族などは、きちんと鎮魂しないと、荒ぶれる神、怨霊となって祟る。それを恐れて、神社などがつくられる。
将門の怨霊を祀ったのが、神田明神である。神田祭は江戸三大祭の一つ。銭形平次でも知られる。
さて、明治の「神仏分離令」である。これは神と仏を分離して、国家神道の基礎を作ったのだが、仏だけを排除しただけではない、じつは神々も排除されている。
全国的に、神々も改められた。すなわち、天皇につながる天津神の系統の神、記紀神話にある神々、皇室に忠誠を尽くした臣下につながる神を祭神にした。
いっぽうで、国津神系統の神、土俗神、逆臣のような神は排除された。将門を祀った神田明神も例外ではない。
明治天皇が、神田明神を参拝するということになった。将門は天皇に刃向かった逆臣である。そんなものを祀った神社を天皇が参拝するというのでは、具合が悪い。
ということで、将門の御霊は境内の末社に移してしまう。そうして、縁もゆかりもない少彦名命(すくなひこなのみこと=高皇産霊神の子)を祭神としたのだった。
こうしたことは、全国で行われたのであった。この山里の秋葉神社などは、御本尊は、火伏せの秋葉大権現=三尺坊権現であるが、その本尊は他のお寺(可睡齋)に持っていかれてしまう。かわりに火伏せの聖地なら、「火の神」だからということで、「古事記」に出てくる火之迦具土大神(ひのかぐつちのかみ)をもってきたのであった。