過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

鎮魂について

「鎮魂」(ちんこん)について、考えている。魂を鎮めるというので、一般的には、亡きひとの霊を安んずるという意味で使われる。「(み)たましずめ」と。

もともとは、体から「たましい」が抜け出してしまわないように、体に落ち着かせることをいう。死者ではなくて、生きているひとの体から「たましい」が抜けてしまう、と。

「たましい」は、体から遊離してしまうことがある、と考えられていた。いわば脱魂。たとえば、源氏物語にでてくる、葵の上にとり憑いた六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の生霊みたいなものか。

だから、「たましい」体から出ていかないように繋ぎ止めておく。それが、「鎮魂=(み)たましずめ」。

もうひとつ、「たましい」に活力をあたえる意味もある。いわば「たまふり」。外から揺すって「たましい」に活力を与えること。

「たましい」が弱っていると、ふらふらと身体を抜け出してしまって、本人が知らないところで悪さをする。「たましい」に活力があれば、さまざまな悪霊にも影響されない。

そうして、神道では、「たまふり」(魂振)と「たましずめ」(鎮魂)の行法がある。祓いや滝行なども、そのひとつと考えられる。たとえ死んでも鎮魂祭を斎行し、十種神寶(とくさのかんだから)によって蘇生するという行法もあったようだ。

これらは、古代中国の道教の「魂魄」(こんぱく)の考え方の影響もあるのかもしれない。道教では魂(こん)と魄(はく)という二つがあるとされている。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気をさす。あわせて魂魄(こんぱく)。人が死ぬと、魂は天に帰り、魄は地に帰ると考えられていた。鎮魂祭については、また別の投稿にて。