過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「われ思う、ゆえにわれあり」  思いは止められるか

デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」。デカルトの文脈を外れて考えてみた。「われ」が「思う」のはたしか。思っているのは、「われ」であって他人じゃない。「思う」ということは「われ」の管理下にある。そう思っているけど、いまの原発放射能垂れ流しのように、ちっとも「アンダー・コントロール」じゃない。「思う」ことが、どんどんと勝手に暴走していく。

コントロールできるというのは、「始められる」「変えられる」「止められる」の3つができて、いえることだろう。けれども、思いというものは、勝手に動き出し、勝手に縁に従って変化し、止められない。

ということは、思いは、「われ」ではない。そうも言えるだろうか。「われ」というフィールドで、勝手に沸き起こってくることなんだろうか。そして、それは「われ」の管轄下にはないのかもしれない。

けれども、「われ」がなくなれば、「思い」もなくなるのだとおもう。死んでしまえば、思いも起きてこない。いやまてよ、死んでも「思い」は勝手に動いていくのだろうか。肉体をともなわなくても、思いだけはあちこち動きまわるのだろうか。

勝手に起きて、勝手に動き回る「思い」というものを、しっかりとつなぎとめておく。「いま・ここ」につないでおく。それが、瞑想とかヨーガの実践ということになるんだろうか。