過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「思考」は止められない。思考は、変化させられない。思考は、生み出せない。

眠っていても頭の中のCPU(中央処理装置)が動いている感じ。止まらない。休まらない。

CPUが思考を生み出している。あるいは、思考がCPUをとおして、はたらくのか。

自分で思考を「止める」というのが難しい。いま思考を止めろといっても、止まらない。ますます動き出す。たまに瞬間、止まることがあるが、とにかく、思考というものは、一日中、とまるような気がしない。

止まらないなら「始められる」か。あらたに思考を動き出させるのは、どうか。それはすこしはできる。

でも、次々と起きてくる現実、縁というものによって、思考は起きてくる。自動的に起きてくる。カラスがなく、お日様が出た、ああストーブの音がする……そこから、思考が動き出す。

じゃあ「変える」のはどうか。思考を変えるのも、できそうで難しい。大きな思考の流れ、文脈というのは、もって生まれた性質というのか、小さい頃からの傾向性というのか。なにか大きな流れに支配されているようなところがある。思考の轍(わだち)からは、なかなか外れないように思う。

「われ思うゆえにわれあり」とデカルトのことばにある。しかし、「われ」が思う。のだけれども、じつは「思い」「思考」が「われ」を使っているのかもしれない。「われ」は、思考の召使かも。そうしたとき「われ」が「ある」のだろうか。

「ある」と思いこんでいるだけかもしれない。思考によって、過去と未来の時間軸によって「われ」があると思い込んでいるのかもしれない。

「思考」は止められない。思考は、変化させられない。思考は、生み出せない。スタートできない、チェンジできない、ストップできない。ということになると、それはコントロール不能ということだ。

その「思考」を止めるという実践がヨーガであり、禅であり、瞑想である、ヴィパッサナー(観る)ということになるか。