過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「雨が降ったら、どうぞ勝手に降ればよい」という生き方

きのうはスリランカスマナサーラ長老の講演会に出かけた。袋井の可睡斎(かすいさい)という曹洞宗大本山で行われた▲最初のツカミが面白かった。それは古い経典にある話。在家の人が「雨が降っても私は大丈夫です」と言うと、ブッダは「雨が降ったら、どうぞ勝手に降ればよい」と語ったというのだ。これは、在家の生き方と仏教徒の生き方のちがいをあらわしているという。

え、なにが? ──こういうことだ。在家の生き方は、なにかのために準備しておこう、〈備えあれば憂いなし〉で生きている。それは構えていることであり、現実と戦おうとしている▲仏教徒の生き方は、準備は要らない。〈備えなければ憂いなし〉で生きている。構えはない。すなわち、現実の戦わないからだ。そんな話であった▲たしかに、「なにがあっても、なにが起こっても大丈夫」というのが最高の生き方だと思う。あらゆる準備をしても、万全ということはありない。なにが起きるかわからない。戦おうとしたら、勝つかもしれないが、負けることもある。戦わなければ、勝ちもなければ負けもない。

そうはいっても、準備しない人生は不安だ。そのためにはどうする? ということに対して、長老はこうも語っていた。ほとんどの悩み苦しみは、自作自演。自分で悩み苦しみを招いているのだという。まずそのことに気づくこと▲そうして、「人生は今日だけ」という生き方にすればラクになる。一日も長いので、半日でもいい。6時間だけでもしっかり生きよう。先のことは考えない。──ま、そんな話であった。その他、いろいろとためになるおはなしがあったので、思い出しては書かせてもらう。