過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

マナサーラ長老、駒澤大学に入学する

今回は難しくて長いです。スマナサーラ長老、駒澤大学に入学するというところです。
  ▽
「仏教哲学・仏教心理学のような研究は、こちらではできません」と駒澤大学からいわれました。
残念なことに、大学は私が期待していたような場ではなかったんです。

じゃあ、何を学べばいいのか。よし、道元を学んでみよう。
それで初めて道元を学びはじめました。
  ▽
関西外大には半年間、日本語を学んだところで、駒澤大学の博士課程に入学しました。
駒澤大学は、曹洞宗が母体の大学ですから、道元を祖師とする学問があるわけです。
スリランカにいたときには、そのことをまったく知りませんでした。
  ▽
正法眼蔵』を読み進めていきます。
すると、「よくぞこういう方がおられて、こういうふうに仏法の本質を言ってくれたものだ」と心から嬉しくなったんですね。
ブッダの教えと相通じるところがあるのです。ブッダの教えには、まったく逆らっていないんですね。

パーリ経典などのない時代にあの大乗仏教という、いわば瓦礫のような山から、道元はものの見事に、ブッダの教えを導いてきているのです。『正法眼蔵』の後半では、「七覚支」や「三十七菩提分法」「菩提薩四摂法」など語っています。

パーリ経典ともまったくぶつかりません。もしも道元がパーリ経典にアクセスできたとしたらと思うと、『正法眼蔵』に書くこともずいぶんと違ってきたと思います。
  ▽
道元の師匠の如浄禅師からは、「一箇半箇を説得せよ」と言われました。「一箇半箇」とは、一人でも半人でもいい、極めて少数だが得難い人物。 そのような人材を育てなさいということです。道元には、宗派を起こそうという気持ちなどまったくありません。

ただひたすらブッダの正法を伝えていきたい、という思いだけがあったことでしょう。
道元は真理を求め続けた人です。「修行に際なし」と言っています。
その意味では、日本の歴史で唯一の真面目なお坊さんにみえたのです。
  ▽
しかし残念なことに、道元の研究者が、道元をほとんど理解してないようにみえました。
自分たちの教えは何でこうなっているのかと、なかなか理論を立てられないのではないか。
道元の考えていたことを、現代人の論理に合わせて、語ることができていないのではないか。
さらには、人間のことを理解しないで、よく研究しているなあとも思いました。
  ▽
道元の言葉は、日本人ですら誰もがちんぷんかんぷん、ワケが分からないでしょう。しかし、とても深遠な哲学なんです。

道元の言葉です。
仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」(『正法眼蔵』現成公案

難しすぎるでしょう。
  ▽
仏道をならうというは、自己をならうなり」
これだけでも、ずばりと仏教の要点を語っています。
「現成公案」に述べられた一行一行には深い意味があります。しかし、究極的には、この一行だけで十分と思いました。
「自己をならう」こと。「自己を学ぶ」それだけ。それでもう十分。
「自分自身をならうこと」それが仏教なんですね。それで仏教の本質を全部言っている。
  ▽
では「自己をならう」とはどういうことか───。
「自己をならう」とは、さらにすすめていくと、究極的には「自己というものはありえない」。そのことがわかる。これがブッダの教えのエッセンスです。
  ▽
お経を読んだり仏教書を読んで仏教を学んでも、「自己」というものを学ばなかったら、意味がありません。「自己」を学ばなかったとしたら、まことにもったいない。それでは、知識が増えて妄想が肥大化するだけ。ブッダの教えと乖離するばかりです。
  ▽
仏教には膨大な教義体系があります。アビダルマ(阿毘達磨 経蔵、律蔵などの研究・思想体系、およびそれらの解説書・注釈書)とか「中観」とか「唯識」とか難しいものもあります。あるいは仏教の歴史とか、古文書学とか美術史みたいなことも含めて、仏教はたいへんに幅と奥行きがあります。

しかし、もっとも肝心な「自己をならう」ということをしないとしたら、まことにもったいないことです。
  ▽
仏教をならうとは、究極のところは、「自己をならう」ことに尽きます。
仏道をならうというは、自己をならうなり」
この道元禅師の言葉は、並大抵の人が言える言葉じゃないんです。仏教そのものを要約したエッセンスでしょう。
  ▽
南方にはたくさんのパーリ語の経典があります。大乗仏教の経典とは趣が違います。けれども、仏法の本質である「自己をならう」という内容から検索すると、パーリ経典では、たくさんの用例がヒットします。ただ残念ながら、大乗経典の場合は、どんな結果になるのか、それはわかりません。

こうして、それなりに道元を丁寧に読んでみると、学者が長い間にわたって研究していることと、私に見えるところとでは、いろいろ違うんですね。