過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いまはスマナサーラ長老の「道元禅師」の本作り。説法をもとに原稿にしているところ。

この暑いのにせっせと仕事。いまはスマナサーラ長老の「道元禅師」の本作り。説法をもとに原稿にしているところ。
まあ、こんな感じ。
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禅はインドから中国に渡った、達磨大師(ボディダルマ)から伝わったとされます。
しかし、誰が誰から学んだとかは、人間の歴史ですね。ボディダルマという方も歴史的な人物かどうかもわかっていません。ボディダルマは面壁九年と伝えられています。
坐り続けることが仏教の伝道になるのでしょうか。
それはただ坐っているだけではありません。自分をならっているんです。自己とはなにかをさがしているのです。
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ボディダルマのように坐ってわかる人もいれば、洞窟の中で何十年間も坐っても全然わからない人もいます。あるいは、「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍」(江戸時代の禅僧 白隠の言葉)とも言われます。
必ずしも、こういう方法で発見できるという話ではないんです。10年も20年も坐ったところで、悟れるのかどうかわかりません。あるいは、瞬時に悟る人もいるのです。
どんなとき、どういうふうに悟るのか、それはわからないんです。
悟る場所も、坐禅堂であったり、トイレだったり、洗顔しているときとか、風呂に入っているときか、それはわかりませんよ。
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パーリ仏典には、アーナンダ尊者の体験が書かれています。
アーナンダ尊者は、師匠のマハーカッサパ長老から言われました。
「明日、ブッダの説法された言葉を集める集い(仏典結集)があります。あなたはまだ悟ってないから、その集いには参加できません。」
いつもブッダのお供をして、たくさんの説法を聞いて、よくその内容を覚えているアーナンダ尊者です。「多聞第一」とよばれたほどです。
自分こそがブッダの教えを伝えなければならない。
けれども、悟っていなければ「仏典結集」には参加できないのです。
そのためにこそ、悟らなければいけない。
けれども、猶予はたった一日しかないんです。
アーナンダ尊者は悟るために、必死で瞑想しました。ところが瞑想しても瞑想しても、まったく悟る気配がありません。
もう、くたくたに疲れたんです。
すでに明け方になっていました。
アーナンダ尊者は、もう悟ることは諦めました。手放したんです。
「もう寝よう」。
体はまだ床についてないんです。体は横になって寝てないんです。寝ようとしたまさにその瞬間、悟りが起きたのです。
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必死な瞑想は役に立たないとか、役に立ったとか、努力を放棄したことがポイントだとか、そこはいろいろ議論があるかもしれません。
しかし、そんなことは、私たちにはどうでもいいんです。その瞬間に起きることは誰にもわかりません。
しかし、これだけはいえます。
「怠け者」と「馬鹿者」には不可能なんです。
自己を探すことに必死になる人にしか、悟れません。