過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

長尾先生のこと 

かつて宗教や心霊的なことを教えてくれた長尾先生という方がおられた。ぱっと見、まったく普通の爺さんだった。静かで控えめ。からだも小さい。

もう亡くなられたが、四国の多度津にお住まいで、真言宗醍醐派のお坊さんだった。仏教、密教、心霊科学に通じていた。
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霊的な直感力にすぐれていて、その種の相談事を受ける方だった。知識で物をいうひとではなくて、感性と体験を通して教えてくださった。

新興宗教からも学ぶ方だった。
「宗教は外側からみたんじゃわからん。内側からみないとわからんよ」
そう言って、じかにその宗教団体の本部や集いに出かけていった。

立正佼成会の法座はいいよ」「真如苑のひとを大切にする姿はいい。礼拝する姿はいいよ」「ほんとうの神道を学ぶには、玉光(たまみつ)神社に行くといい。きちんと清冽な空気がわかる」
ということで、ぼくもあちこち、実際に出かけていくようになった。
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先生が、ぽつりと言った言葉が、いまでもいろいろと心に残っている。
ある巨大宗教団体の機関紙を見せると、そこに「邪悪と立ち向かえ」というようなタイトルがでかでかと出ていた。それを見てつぶやいた。

「この世に、邪悪なんていうのが、あるんかいなぁ……。
〈わたしが正しい〉というのは、宗教とはいえんなあ……。ほんとうの宗教というのは、〈わたしが正しい〉じゃなくて、〈わたしが、まちがっていました〉というようになるんじゃないんかなあ……。」
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──いい宗教団体とよくない宗教団体との見分け方ってあるんですか?

「うん。そこにいくと、ねっとりした生あたかいものを感じる。それは、よくない宗教やなあ」

──たしかに、それは私でもわかります。じゃあ、いいところはどんなですか?

「たとえば、庭の植木をみてごらん。スキッと立っているところがあるそういう場ができている宗教団体はたいしたものや」
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会った瞬間に、その人の本質的なところを見抜く力があった。

ただ、それを相手にどう伝えるか、気を悪くされたり落ち込ませてはいけないし、というところに苦慮していた。ひとは否定的な部分にフォーカスされてずばっと言われたらときには、ヘコむことがあるから。

ぼくがはじめて出会ったときに、こう言われた。
「あんたは、たくさんのいい縁をつくる力があるなあ。けどなあ(すこし沈黙)。かんたんに縁を切ってしまうところがあるなあ。縁がつづかないんやなあ。もったいないなあ」。
たしかにそのとおり。ぼくの課題である。

心霊的なことなどで苦労してきたひとには、何も語らずとも、会った瞬間、「たいへんやったなあ……」としみじみ言われて、そのひとは、泣き出してしまったこともあった。
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こういう能力は修行して得られるものあるだろうけど、もって生まれたものじゃないかとも思う。

霊的なチカラというのは、制御がむつかしい。知らず知らずヘンな低級霊に支配されてしまうこともある。ズバズバ予見したりするとすごく敬服されたりして、信徒も増えてくると、チカラを過信して、傲慢になってしまうこともある。そこに魔がつけ入る。

そのあたりは、有名にならないように、評判にならないように、十分気をつけている方だった。
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成功するどうかは、所詮は「ひと」やなあ。計画とか発想ではないんだ。
その人に「運があるかないか」できまる。

その「ひと」に運気がない、徳がない、しぼんでいたら、どんなにいい企画でもうまくいかない。運気のある人がやれば、無理だ、ダメだということでも、成功するものだ、と。

その「運気」は、「オーラ」ともいえるし、「指導霊、守護霊」ともいえる。
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──じゃあ先生、運気のないひとは、なにをやってもだめなんですか?
「まあ、そういうこっちゃ」。

──でも、なんかとならないんですか。運気を上げるには、どうしたらいいんですか?
「それはね、運気のあるひととつきあうことだよ」

──でも、運気のあるひとと付きあうのが難しいときには、どうしたらいいんですか?

「それは、またこんど教えてあげよう。そういう運気のいい心を作る行があるんだよ」
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ある方が、山形の蔵王から、「お堂を建てたので、参拝客がたくさん来るようにしたい、どうしたらいいですか」と相談に来られた。
その方の話をじっと聞いておられた。そして、静かに語り始めた。

「さしでがましいことを言うようですが、お寺とは祈りのエネルギーが充満していてこそ集まるものです。護摩堂をつくって護摩を焚いたからといって人はきませんよ。

そもそも、お寺というものは、そこそこの徳がないと建てられないものです。
失礼ながら(しばし沈黙)、あなたにはそれ以前に、整理すべき因縁がまだおありではありませんか?」

そう言われて、その方は青ざめてしまったのであった。「整理すべき因縁」がいろいろあったという次第。

※長尾先生に関する逸話は、たくさんあり、また思い出した書いていくことにする。