過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

古武道の甲野善紀さんを取材した 「ねじらない、うねらない、ためない」

古武道の甲野善紀さんを取材したときのもの。もう20年以上も前だと思う。多摩の道場を訪ねた。かなりタイトな時間の中、実演もしてくださり、いろいろ教えてもらった。

いま、大東流合気柔術の歴史と逸話をまとめようとしているので、参考までに。
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──武術の極意をズバリひとことで言うとどういうことになりますか?

「ねじらない、うねらない、ためない」。
普通に考えると、“ねじったり、うねったり、ため”があったほうが、動きは速いし威力もあるように思えるが、実はそれがブレーキになる。

「ねじり」や「うねり」の動きは、筋肉や骨、関節などに動きを伝えていくプロセスで時間がかかる。ドミノ倒しのようにパタパタとつぎつぎに動きを伝えていくわけだから、当然、時間差が生じて動きは遅くなる。

瞬時に体をかわして相手を抜くときには、“ため”をつくると、「あっ、来るぞ」という気配に気づかれてしまう。ねじったり、うねったり、ためをつくると、マグロのような大きな魚の動きになる。それよりも、たくさんの小魚の群れが、瞬時に向きが変わるような動きが大切。

──「ねじり」「うねり」「ため」をつくらないで、どうして速さや威力がだせるんでしょうか?

体感しないと理解できない世界。あえて言葉で表現すれば、車がぶつかるとき、車内の物がバーンと前方に飛びでようとする、あるいは、ダムの水門を開けた瞬間にどっと水がでてくる、そういう原理と同じす。

──スポーツの世界と武術ではどう違いますか?

スポーツでは、「威力」と「速さ」と「器用さ」が求めらる。威力をだそうとして筋力トレーニングをすると、器用さと速さはなくなる。器用さと速さを求めると、威力がなくなる。

じつは「威力」と「速さ」と「器用さ」は、同じものの変化だ。体を細かく割ることによって、「威力」と「速さ」と「器用さ」がでてくる。

──「体を細かく割る」ということについて詳しくお願いします。

「体を細かく割る」とは、一つ一つの筋肉や関節の動きを、微細に部分部分でコントロールをすること。

体が大きなマグロのような単体の動きになるのではなく、小魚の集まりのようになること。小魚の群れは、一匹一匹の魚は独立している。だから、瞬時に動きを変えられる。

何かもち上げるとき、腕だけでもちあげようとする。腕以外の体の部分は使わないことがある。ところが、体が細かく割れていると、一つ一つの体の各部分が総動員される。体全部を使ってもちあげられるから、重いものでもいとも簡単にもち上げることができる。

ちょうど太陽光線をレンズで集めれば燃やすほどの熱がでるように、ピンポイントに集めれば威力になる。そして、方向性をもたせれば速さになる。細かい情報の組み合わせによって器用さがでる。
武術の極意は、いかに細かく体を割って、それをいかに操作するかということにある。

──そのためには、反復練習が必要なんでしょうか?

反復練習というのは、身体にとっては最低の修得の仕方だ。反復練習だと、練習がノルマとなって、感じたり考えることをしなくなる。
二時間やると決めて、義務感で稽古を続けたら、それはかえって感覚を鈍らせてしまう。身体の感覚を探求していくのと、形を身につけるためにマニュアルに沿ってやっているのとでは、雲泥の差がある。

大切なことは、みずみずしい感性で体感を研ぎ澄ませていくこと。研ぎ澄ませることによって、あるとき、それまでとはまったく質的に違った新しい体の動きが生まれる。

だから、私は、技のなかに固定的な基本をつくらない。絶えず「基本とはなんなのか」を探求している。

いつも、「これでいい」とは納得しない。だから、稽古とはいつもライブ。毎回毎回、いままで得た情報を検証し、どうすれば、よりマシになるかという実験だ。

いつも「これでいいのだろうか」と、薄氷を踏む思いでいる。気持ちが集中できて、張りがでる方向に向かっているか、そういったことを判断材料として、手探り足探りで進んでいる。だから、技が進展していく。

一か月前の動きは、いまはすでに古くなっている。自分自身に進展がなかったら、人を教える情熱も湧かない。(続く)