過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

べてに「自分」を入れない生き方をしてみめ 道元の現成公案から

スマナサーラ長老の本作り(道元の「現成公案」をよむ)をしているのだが、そのことが機縁で実践していることがある。これが、なかなかうまいこといきそうなのだ。
それは、「自我を入れないで行動する」こと。


自分がいる、自分がある。どんな瞬間でも自分がいる、ある。
そこをはずなんて、できることだろうか。
深い瞑想をしても、平穏で静寂な至福を感じている「自分」がいるのだ。
その「自分」を外すなんでできるのだろうか。
それは究極に難しいのだが、ひとつトライアルしているのは、自分を外して行動してみるということだ。
以下、スマナーラ長老とのインタビューを引用してみる。


○すべてに「自分」を入れない生き方をしてみる


───とても深遠なこと(道元の「現成公案」)が述べられていると思います。けれども、そうしたことが日常生活で役に立つのでしょうか。


すごい真理ですからね。暮らしの中で、確実に役に立ちますよ。
自我がないということだけで、もう現実に役に立ちます。
片づけの仕方ひとつとっても、自我を入れないとうまくいくのです。
───たとえばどういうことですか?
この物が、どこに置かれたいか、このコップはどこに置かれたいと思っているのだろうか。ものの気持ちになって動かしてみるのです。
「自分が」物を片づけようと思うのではありません。
主語は自分ではなくて、物です。
この椅子はどこに置かれたいと思っているのだろうか。
このボールペンは、どこに置かれたいと思っているだろうか。
すべてのものを、そのようにみてみるんです。
そうすると、不思議なことに、じつにスムースにきれいに片づきます。


───なるほど。すると、自分の身体の動きでもそのように観ることができそうですね。


自分の体の動きでも試してみてください。自分が自分の体を動かしているわけですが、動かすのは自分ではなく、「体」が動かしていると思ってみるのです。
「自分」が主語ではなくて「体」が主語です。
自分の足がどう動きたいのか。足が動かしたいように動いてみる。「自分」が主語ではなくて「足」が主語です。
手がどう動きたいのか、手の動きに沿ってみる。「自分」が主語ではなくて「手」が主語です。
そうやって生きていくと、ずいぶんと、日常の暮らしは楽になります。
それが、暮らしのなかで心をならう実践、修行になるのです。
自分がどう思うか。自分がどうなりたいか。
そこをできるだけ捨ててみるんです。
料理に例えてみましょう。「私が晩ご飯をつくらなくてはいけない」というと、ストレスになりますね。そうではなくて、「私」を主語にしない。
たとえば、これから「晩御飯がつくります」と。ちょっとヘンな日本語に聞こえると思います。
主語が「晩御飯が」ですね。「私」が主語ではない。そうなったら、あとは物事を組み合わせるだけでしょう。


───でも、料理をつくる時、普通は「おいしいとみんなに感じてほしい」と思いますよね。


そういう思いを外していくのです。自分を入れないでつくってみるのです。食べる人たちが「うまい」とか「おいしくない」とか言ったとしても、こちらは関係ないんです。
ごはんを炊く時。「お米さま」──わたしは「さま」という単語を入れるんですよ。
「お米さま」がどうあればいいかな。「お米さま」が「ご飯さま」になるにはどうなればいいかな。米をとりだして水をいれて研いで炊く。「ああ、ご飯さまがよくできている」。それだけなんです。
「わたしはちょっと固めのほうがいい」「もうちょっと柔らかいほうがいい」とか、いろいろな人がいるでしょう。人に気に入られようとしてつくろうとすると、「この人は嫌な気持ちを感じている」としてストレスがたまります。
なんと言われようと「ああ、そう?」それでおしまいなんです。
これは「なげやりに作れ」というのではありません。
お米が、野菜が、食材たちが、どのようにあってほしいかを中心に作っているのです。
そうすると、自然と美味しい料理ができていくのです。
───なにかこぼしたり、ひっくり返したりしてパニックになることもあります。
子どもがカップを持ってくるとき、水をこぼしてしまった。絨毯を汚してしまった。
「あ、こぼしてしまった。これはたいへん。はやく拭かなくちゃ。はやく。はやく」
すこしパニックになりますね。普通はそうなります。
「何でこんなことになっちゃったんだ! ああ、いつもそうだ」
いちいちそこで、後悔したり、怒ったり、がっくりします。
それは、自我を入れているからなんですね。
時間の軸でいうと、まず原因があって、次に結果が起きたということです。
原因はすでに作ってしまったんだから、結果はかならず起きます。
結果を起こす原因はもう終わった。だから、もうどうしようもないんです。


───で、問題は次のステップですよね。


そこからは、自分で管理できるのです。
「ちょっと待ってください。これは学びのチャンスですよ」
そこで絨毯の汚れを消す方法を、子どもたち教えてあげられるんですね。メッシュを濡らしてポンポンと叩く。「もうちょっと待ってください。はい。みてください」。これでとてもうまくいくんです。すごくきれいになっている。
いらだったり、パニックになれば、さらに問題を増やし、すでに不愉快な状況をいっそう深刻なものにしてしまいます。
「なんとかしよう。なんとかしなくては」という世界ではないんです。
その時、その場で物事を組み立てているだけなんです。自我が入ってないと、それが可能なのです。


○座布団と対話しましたか


───以前、テーラワーダ仏教協会の機関誌(パティパダー)で、子どもたちの体験出家の体験談を読みました。長老から「座布団と対話してみましたか」と問われたことで、学びになったと書いてあったのが印象的でした。


子どもたちの体験出家の合宿ですね。そこでは、お経を読むこと、瞑想すること、歩くこと、片づけをすること、すべての所作が仏道修行になります。
片づけも大切なことです。子どもだから、いい加減にぱぱぱっとやってしまいます。座布団など不揃いになっていました。
そこで、片づけるときのポイントを言ってあげました。
「座布団と対話しましたか。座布団がどの位置に置かれたいと思っているでしょうか」。
子どもたちは素直にそれをやりました。
するとたいへん見事に整頓してしまったんですね。私が褒めなくても子どもたち自身が喜んでいます。「どうですか、見てください」と。


───長老はそれで、ほめてあげたわけですか。


いいえ、子どもたちは自分で勝手に喜んでいるので、別にわたしは「よくできました」とは言いません。自分たちが頑張って、自分が喜びの世界で満足しているんですからね。そこに評価は必要ありません。
これが普通の社会だったら「ちゃんとやりなさい。しっかり片づけけなさい」となりますね。すると「ああ、うるさいな」と思いながら、整頓する。
叱られるし、仕方がない。みんながやっているからやらなくてはいけない。やればやったで、評価がほしい。評価されないと、怒りが出てくる。そういう世界で私たちは生きています。
すべてに「自分」を入れないと何をやってもうまくいく
ポイントは、すべてに「自分」を入れないことなんです。そしたら、すべてがうまくいきます。
そうなると、他人の評価を求めなくてもいいのです。自分で自分に満足しているのです。
何が起きてもオッケー。起きたら起きたとおり。どんな結果になっても、もう全部の結果がオッケーなんです。
「自分の思うようにしたい」「相手に気に入られたい」「嫌だと思われたくない」というのは、自分の主観です。自我です。
自分を入れると、相手がストレスになって反応します。そうすると、こんどは自分の反応を引き起こします。そういうことがえんえんと続いて、争いになるんです。戦争にしても、そうした自我の行き着く先に起きることです。
いってみれば、この宇宙のすべてが自作自演ということなのです(要説明)。
宇宙の中の一員である自分には、起こることは起こるのです。ものごとはなるようになっているのです。
そして、起きてしまったらもう仕方がない。過去には戻れません。
だから、次のステップでは、自我を入れないで淡々とやるだけのことです。そうしたら、すべてうまくいくのです。


───自我を入れないで淡々とやるだけ、なるほど。


そのようにして、この日常を生きてみてください。
そうすると、何をやっても抜群に明るい世界が現れるんです。明るくニコニコと生きている人間が現れます。
これは宗教の世界じゃないんですよ。むしろ宗教は必要ありません。先祖供養とか祈る必要などありません。
元気になるため、あるいは安らぎを得るためのポイントは、自我を外していくところにあるのです。
ひとは、自分というものは存在しないという世界を発見したら、もうすでに立派に成長しています。
これまで抱えていた、たくさんの問題は瞬時に消えてしまいます。
トラブルも起きません。「社会でどう生きるか」も関係ない。「上司に評価してもらおう」ということも関係ない。年をとって体が動かなくなっても関係ない。「死んだらどうしよう」ということも関係ないのです。