過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

夢の記録 

夢というものは、自我の境界が曖昧。あらわれてきたものすべてが自分の象徴とも言える。言語化するととても不明確。しかし、イメージとしての生命力は浸透している。

昨日、こんな夢を見た。

①ゆったりくつろいでいた。突然、理由はわからないが、いのちがあぶないことが起きる。地震なのか津波なのか原発なのか、わからない。

②とにかく自分だけは、かろうじて脱出。あとの人たちのことは、知らない。

③いのちだけは助かった。しかし、まったくの一文無し。さあ、どうしよう。路頭に迷う。

④路上で、知り合いのおばあさんに出会う。その人の紹介で、家に行く。そこには若い女性たち10人ほどがいた。年とっている自分は、すこし気おくれする。

⑤疲れたので休むことにした。そこには、とっても大きな布団一つだけ。輪になってみんなで入る。ぼくは、片隅でひっそり入る。

⑥ふと見上げると、ホームチャペルのような、祭壇のようなものがある。金の文字で、輝いている。文字マンダラだ。金色の文字だけが空中に浮かんで輝いているわけだ。いわゆる日蓮の描いた文字マンダラのような。

⑦翌朝、その家を出て住むところを探す。どこに行こうか。そうすると、「クメにいけ」というメッセージが出る。「はて、クメってどこだろう」。お金もないし、アテもない。どうしよう、困った困った。

……というところで目が覚めた。とりあえずは、住むところがある、食べ物はある、家族はいる。なんとか暮らしていけるというのはありがたい。まず浮かんだことだ。

大いなる母性(グレートマザー)でくつろいでいたが、切り離されて孤独に生きざるを得ない。しかし、また女性的なるもの(アニマ)によって引き上げられ癒やされる。

しかし、同化できずにまた分離して孤独にさすらう。ま、ユング的に分析すると、そんな感じか。金色の文字マンダラやクメというメッセージも不思議。

しかしまあ、リアリティはある。この現実が崩壊して、路頭に迷う。野垂れ死にする。そういう事態は、常に起きる可能性はあるわけだから。

夢はよく見ていると思うが、起きた時忘れてしまう、たまに、印象に残る夢は記録している。文にしたり絵にしたり。書き留めておくと、あとあと、ああそうかと気づくことがある。