過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

坂口安吾の「堕落論」における天皇制について

坂口安吾の「堕落論」の一説から引用。全文は、青空文庫にある。「天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。」と述べる。
なお、改行は読みやすいように池谷が勝手に行っている。
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私は天皇制に就ても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである。

天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起したこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。

社会的に忘れた時にすら政治的に担かつぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。

それは天皇家に限るものではない。代り得るものならば、孔子家でも釈迦家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである。

すくなくとも日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。平安時代藤原氏天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑いもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。

天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。

天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。
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