暗くて狭い。逃げられない。あともどりがきかない。いつ終わるのかわからない。不安と恐怖。
赤ちゃんが生まれ出るときって、きっとそういう体験をするのだろう。だから、安らかに静かには生まれてこない。
こわかったよー、つらかったよー、かなしかったよー。そう叫ぶ。全身で絶叫する。そういうふうに感じる。
親としては、なんとも幸せな瞬間なんだけども。産道をとおって生まれ出てくる赤ちゃんは、ほんとに怖かったことだろう。苦しかったことだろう。
ブッダは「生老病死」という4つの苦しみが、根源的なものだと教えた。いろいろとつらい。ままならないことばかり。
はじめに生まれる苦しみがある。成長も苦しみがともなう。老いは、わが身が不自由になって、気力も衰える。病になれば動けない。食事もままならない。暗く陰鬱になる。
自分が死ぬこと、死ぬだろうという思いは、苦しみの最大のことか。まったく体験のしたことのない未知の世界にいく。それは、生まれ出るときと同じような恐怖だろうか。ただし、死の世界があるとしたら、そこは苦しみかどうかは、わからないけど。静けさがあるだけかもしれない。
そうして、死はあらたな再生なのかもしれない。誕生のときのように、苦しみを通過して、あらたなスタートをきることになるのかもしれない。そのようにして自分は、生死・生死と無眼に輪廻してきたのか。
さらには、この暮らしの中に生死がある。眠るときが死であ。目覚める時が生か。そして、瞬間瞬間、生死があるといえるだろうか。
限界を突破しようとするとき、大きな恐怖、不安、苦痛がともなう。そこに、学びがあるんだろう。けれども、なかなかしんどい。
そのあたり、肚で徹してしまえば、なにがあっても自然体になるのだろうか。自然体で、自分が自分として生きられること。
弱い部分、ダメなところが、じつは強みであり、財産になりうるのかもしれない。ダメを味わい、つらさを味わい、限界を味わう。そこに、光があらわれるのかもしれない……。
こうして書いてみると、親鸞のいう「地獄は一定(いちじょう)すみか」と。そこに徹したとき、弥陀(かぎりない、はかのしれないという意味)の光に照らされる。もうすべておまかせしてしまう。そこに、つながっていくような気もするのだが。