過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

きょう一日の苦労は、その日の一日だけで十分である

ああ、疲れた。といって、休んでも疲れがとれない。登山とか薪割りなどの筋肉疲労など、休めば疲れはとれるけどね。

休んでも疲れがとれない。というのは、頭が疲れている、心が疲れているからだ。まさに心労と。

頭が疲れていることのサイン。おもしろくない。飽きた。いやだなあ。つらいなあ。重たい。そういうところにあらわれる。

だから、すこしずつ休憩する。気分転換にギターで歌う。わんこの散歩に出る。お経をよむ。祝詞をよむ、瞑想する。露天風呂に入る。

でも、疲れはなかなかとれない。

あたりまえのことだけど、やるべきことをやるしかない。ちゃんとやらないので、重圧感となって、迫ってくる。やがて、押しつぶされそうになる。

いかに瞑想しても、解決にはならない。

やる、ということ。しっかりと、こなすということ。それしかないのかなぁ。

もひとつ、大きなポイントは、コミュニケーション。こういうわけで、こうなっている。そんなやりとりができれば、相手も安心。こちらも安心。次の手が打てる。コミュニケーションをとらずに、とれずに、ああ困った、どうしようというのは、エネルギーの浪費。集中力の低下。疲れを増すだけ。

「コミュニケーションで解決できないことは、ひとつもない」。そのように、よく恩師が言っていたことを噛みしめている。

そうして、もっとも肝要なこと。それは、ぐっすりと深い眠りができること。深く眠ったら、リセットされる。昨夜までの重圧感はなんだったんだろう。やればできるじゃないかと、そういう清新の気分になれる。

まあしかし、難しいのは、疲れているとなかなか深い眠りに入れないこと。そこで、何十年も苦労している私がいる。

で、とにかく、放置していた難問の山をすこしずつ、いま崩しているところ。一つひとつ。

きょう一日の苦労は、その日の一日だけで十分である。あしたは、あしたの苦労があるのだから明日のことを思い煩うな。そのように聖書(マタイ伝)にある。