生きていると、いろいろとうまくいかないことが出てくる。どうも運勢が悪い。いつも引っ張られてうまくいかないみたい。おかしいなあ、と。
そうしたとき、方角が悪い、北東にトイレがあるのは凶相だ、玄関の方角がよくないからだ、そう言われるとそうかなあとおもってしまう。
さらには、先祖で成仏していない人がいる。苦しんでいる人がいる。その人たちを成仏させないと、なにをやってもうまくいかない、とか。
お墓をちゃんと管理してないからだよ。角が欠けているのを、そのままにしているでしょう。墓相がよくないからだ。位牌がよくない。先祖代々じゃなくて、先祖累代と書かなくちゃいけない。……などといわれると、そうかなあと思ってしまう。
ぼくみたいに、墓なんかいらない。なくていい。遺灰は山や川や海に捨ててくればいい。なあんてことになると、それはとんでもないってことになる。
ひとつ気になると、次々と引っ張らてゆくことになる。方角、家相、墓相、日にち、もちもの……そんなことを気にしだしたら、身動きできなくなってしまう。
つまるところ、それらは「根拠がないもの」がほとんどだと思う。
所詮は、「どう生きるか」ということに尽きる。自らの生き方に尽きる。自分をたいせつにしているか。家族をたいせつにしているか。親しい人をたいせつにしているか。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついていくように。」
これは、最古層の経典、ダンマパダの冒頭の言葉だ。
そして、こう続く。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。」
自分の心をたえず養う、磨く、浄化していく。それがいちばんたいせつなことと思う。そこを基軸にして、先祖供養だとか方角だとかみていかないと、行き詰まるように思う。