過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

母の死とあかりの誕生

「ねえ、お父ちゃんのママが死んで、かなしかった?」
あかりが、突然、聞いてきた。
家に飾ってある遺影を見て、「この人はだれ?」とお母ちゃんに聞いた。「お父ちゃんのママだよ。もう死んだんだよ」。そのことで、思い当たったんだろう。
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──お父ちゃんのママが死んだのは、かなしかったよ。でもね、あかりちゃんが生まれてきて嬉しいよ。
ママが生きていたら、あかりちゃんのことを、とっても喜んだね。
「そうなの?」
──でもね、お父ちゃんのママが死んだので、あかりちゃんが生まれてきたんだよ。
「どうして?」
──それはね、お父ちゃんのママが死ぬことで、あかりちゃんが生まれることになっていたんだよ。
「ふ〜ん。でも、ママに会えなくて寂しい?」
──さみしいけど、ママはあかりちゃんとなって、いま出会っているから、寂しくないんだよ。
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あかりは、ぼくの母親によく似ている。
生まれたきた時、実感した。「あっ、おかあちゃんだ。転生したんだ」と。
 
あかりが小さい頃、川沿いの道を肩車しては、よく散歩した。いまは重たくて無理だけど。
わが子の暖かさと重たさを肩と首に感じた。歩いていると、「ああ、母を背負っているみたいだなあ」と感じた。それは、先祖〜子孫への連綿とつながるいのちみたいなもの。
先祖供養とよくいう。そんな目に見えぬ不確かな存在よりも、この世に現れてきたわが子をたいせつにすることが、すなわち供養になるのだと思った。
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去ってしまうことは、やってくること。
去ることがないと来ない。
「去る」と「来る」は同時(因果倶時)。
コロナ時代、多くの人が死んでゆく。自分もその中に入るかもしれない。
しかし、この世を去ることと、新しい命としてあらわれることは同時かもしれない。
失うことは、得ること。得ることは、失うこと。

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